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盲人の職業開拓 [歴史]

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盲人の職業開拓
音楽教育百年史―東京教育大学教育学部雑司ケ谷分校(1976年)より
を読んだ。ブンキョーにもお琴の講師の先生がいた。音楽の先生から話を聞いていた。普通科にはお琴の授業があった。

平曲や琵琶などは盲人により開拓され、江戸時代に於いては筝曲は八橋検校を流祖とし当時の当道職屋敷の制度の保護もあり鍼灸と共に発展普及してきた。盲人の伝統職業として邦楽、鍼灸やお金を貸したりして生計をたて、また地唄、三味線も上方より改良され、伴奏楽器の一躍を担った。

明 治の初期にこの当道座制度の廃止により、多くの盲人音楽の検校が当道音楽の普及に勤めた。また特殊教育機関として盲学校が設立され、盲人の社会教育に力を 入れた。京都、東京の盲学校が先駆けとなり大正時代には宮城道雄先生ら新日本音楽運動もあいまって、邦楽と洋楽が取り入られ音楽科教育が試みられた。
昭和の時代に入り、24年に学制の改革により大学令が発布され新制大学となり、教員養成も師範学校から教育学部と開放された。戦後、ピアノの普及によります ます洋楽思考が高まり、音楽大学も新設され一般の音楽大学に進学するようになった。一方、東京教育大学盲教育部特設教科教員養成施設の音楽科は今まで一般 教科の音楽教科の教授もできる音楽教員養成をしてきたが法改正により特殊教科のみの教授しか出来なくなった。また生徒数減少と大学の特殊教育学部の整備に より、音楽科教員養成施設は昭和44年に幕を閉じた。この減少で盲学校音楽科は現在3校となった。
また新職業開拓により調律科や情報処理などの教育課程もこころ見られている。
特殊教育は多大な資料があるが、盲学校の音楽の資料は少ない。特殊教育史などの著書のわずか1ページにも満たない程度の文献しかない。いずれにしても教育機関の整備も検討されるでしょう。


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文化祭 [声楽科]

国立の盲学校にいやがらせをする音楽科教員がいる。附属盲学校とアイメイト協会は表裏一体の関係と言っても過言ではない。このことにかこつけて、音楽科堀内剛君H.は2004の終業式の日に『君が代なんて歌わねー、天皇なんてバカヤローなにが天皇だ皇室がなんだ』、などとクラスでわたしに怒鳴り散らした。わたしは2002年の文化祭で、ねむの木の子守歌を歌っただけだったが、この男子生徒は、『おいミ☆コサマだって、何がミ☆コサマだよー』と同様の感情のある生徒などが声楽科小野山先生と一緒になり、『クラスに君が代を歌えと強要した』わたしを批判したのだ。【ハモニカ横町

m_0217.gif2002/5月頃、広瀬先生が何度も【保健理療】文教のことを聞いてきた。専攻科生と堀内くんがいた。U知っているぜ

わたしは政治や思想のことはあまり論議しないし、戦争などの過去の歴史を振り返ればいろいろな感情もあると思います。しかし声楽科読谷山さんやは2002年にクラスで、わたしは朝鮮問題の本を読んでいるのにMさんは朝鮮の事を馬鹿にしたなどと、いいがかりをしてきた。わたしは何も政治などこの事を言った覚えは無い。声楽科読谷山さんが個人的に関心があるみたいだけだった。
ただ日本の伝統や歴史、古代の神話や事実などをそのまま学んでいるだけでこの様な批判はされる覚えはないし、彼らを批判したりしたこともない。ただ、わたくし達障害者の事をご理解いただき憂いての御振る舞いにただ感謝しているのです。ねむの木の子守唄も故郷を思い、ねむの木が今日もうたっているのでしょうか。という問いかけに対してわたしは、枕辺の 母子と唄う ねむの木の
ふるさと想う にっぽんのうた 。とお返しいたしました。

 


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高圓寺 蚕糸の森 [歴史]

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明治44年(1911年) この地に 農商務省原蚕種製造所が創設され 一代交雑種の原蚕種配布を開始した その後 蚕業試験場 蚕糸試験場と改められたが 一貫して 蚕糸科学技術の研究を進め 世界の先端を行く蚕糸技術を開発してきた この実績は 蚕糸業ばかりでなく 我が国の近代化と経済の発展に大きく貢献した
 昭和55年 蚕糸試験場は 筑波研究学園都市へ移転し 杉並区蚕糸の森公園がここに設けられた この地に生まれた蚕糸科学技術が ますます発展することを願い ここに記念碑が設立された。

東京府豊玉郡杉並村大字高圓寺

むかし見た 田圃の水面 いま薄れ 絹のいとなみ いま消えんとす ももぞの


貞明皇后、節子様がこの地にご幼少の時、五年間お過ごされまた、蚕糸試験場に二度もご訪問なさった。この地をお通りになるたびに変わりつつある風景をなつかしまれ、ご養蚕のご反映を願われた。しかし蚕糸試験場が筑波に移転となったおり、跡地には小学校と蚕糸の森公園となってしまい、わずかに試験場の門と守衛場のみが残された。郷土史会では本館をお蚕資料館として保存するように願い出たが、資料館より公園として利用すると可決された。この地でもはや貞明皇后がお住まいになられたことは知るものも少なくまた、わずかに郷土史会の杉並風土記等に記されるのみとなった。
このことを忘れ去られる事無く、後世に伝うべくこの地に伝承として残す手段はないものかと此処に記すと同時に自治体に訴えた次第です。2007/5/31

 【無断持出禁止】


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