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青海省玉樹地震 青海湖 ブータン展 [歴史]


歓迎に「強い絆できた」=ブータン国王夫妻、小学校訪問−福島
国賓として来日中のブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王とジェツン・ペマ王妃が18日、福島県相馬市の桜丘小学校を訪問した。15日の来日以降、国王夫妻が東日本大震災の被災地を訪れたのは初めて。
 歓迎行事では、児童を代表して6年の後藤香純さん(11)が「お二人に会えたことは私たちの励みになり、希望になります」とあいさつ。5、6年生が合唱や踊りを披露すると、国王夫妻は笑顔で拍手した。
 ワンチュク国王は「ブータン国民を代表し、皆さんを励まし親愛の情を表すために来ました」と児童らに語り掛けた。
 王妃は「今度来日する時は、必ず(桜丘小を)訪問します」と述べ、国王も「きょうここで強い絆ができた。また来たい」と笑顔で児童らに約束した。(2011/11/18-17:29)【無断持出禁止】

ブータン  ジュンドゥラ  琉球音階
http://www.asianmonth.com/prize/lecture/pdf/16_04.pdf

秋篠宮さま、眞子さまがブータン展をご鑑賞  産経 2016.5.30
秋篠宮さまと長女の眞子さまは30日、東京都台東区の上野の森美術館を訪れ、「しあわせの国」として知られるブータンの魅力を紹介した企画展「ブータン~しあわせに生きるためのヒント~」を鑑賞された。
http://www.sankei.com/life/news/160530/lif1605300038-n1.html

<ほっとするニュース>待ちわびた上野のパンダに長い列 3年ぶり公開
毎日新聞 4月2日(土)16時29分配信[ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)]

上野動物園(台東区)でジャイアントパンダが公開された1日、親子連れら大勢の来園者でにぎわった。同日は国内外から106社、201人の報道陣が駆け付ける注目ぶり。来園者も2万人を超え、3年ぶりの上野のパンダを待ちわびた人たちが、表門前やパンダ舎前に長い行列を作った。

 同園によると、2頭とも健康状態は良好。オスのリーリーは食欲旺盛で活発でたくましい。メスのシンシンは丸顔の美形でメンタルが強いという。

 同日、2頭は大勢の来園者に動じることなく竹を食べたり寝そべったり。金網越しに顔を近付け、互いに関心を持つ様子も見られた。独特の鳴き声を出すなど発情の兆候があり、同園は自然交配のために同居させるタイミングを見計らっているが、気分に波があるためタイミングは「非常に難しい」という。

 また同日、園内外では同園スタッフらが東日本大震災への義援金を呼びかける募金活動を実施。地元の上野観光連盟や商店などでつくる「うえのパンダ歓迎実行委員会」も募金活動に協力した。二木忠男会長は「震災後、上野を訪れる人は3割以上減り、商店の売り上げも大きく落ち込んだ。パンダ公開の明るいニュースで上野から日本を元気にしたい」と話した。

 被災者は4月10日まで、上野を含む都立動物園・水族園の4園に無料で入園できる。上野動物園の小宮輝之園長は「パンダたち動物が、少しでも被災者の方の癒やしにつながればうれしい」と話した。

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東日本震災:四川省でも募金を開始「今度は、こちらが恩返し」

2011321 1348

中国・四川省各地で、日本で発生した大震災の被災地/被災者を支援する募金運動が始まった。2008年の四川大地震に際して日本が積極的に支援したことから「今度は、こちらが恩返しだ」という気運があるという。中国新聞社が20日付で報じた。

 四川省では、成都、徳陽、綿陽、広元など各地の赤十字組織が募金活動を始めた。募金箱の設置場所に足を運ぶ人は、一般住民、学校生徒・学生、医療スタッフ、サラリーマンなどさまざまという。成都第七高等中等学校に通う高校2年生の賈明輝さんは、午後の補習授業が終わってからすぐに、市内の募金場所に足を運んだ。「私たちも大地震を経験しました。日本は隣国でもあり、(11日に発生した大震災は)自分の身に降りかかったことのように感じます」という。

 同市の赤十字腫瘤(しゅりゅう)病院の謝国泰さんは、医療スタッフの同僚20人と共に募金場所にあらわれた。謝さんは「私は四川地震で家族が行方不明になった。寄付するお金は金額が問題なのでなく、病院の医療スタッフ400人の気持ちです。日本の被災者の皆さんが、できるだけ早く家庭を再建できるよう願っています」と話した。

 四川地震で最も甚大な被害を受けた地域のひとつになったブン川県でも、住民や生徒/学生、商店主など300人以上が赤十字の募金に応じた。「赤十字を通じて、ブン川の住民は(四川地震時の日本の支援に)恩義を感じており、(今回の震災の)被災者に愛の心を示すため」という。(「ブン」はさんずいに「文」)

 四川省赤十字の丁地禄広報担当によると、20日午後6時までに義捐金約20万元(約247万円)が集まった。今後も省内各地で募金活動を続け、3月末までには集まった分を重慶にある日本の総領事館に渡すという。


ウイグル自治区の地震で被災者45万人、各地で橋や道路が損壊
中国新疆ウイグル自治区西部のホータン地区で12日に起きたマグニチュード7.3の地震で家屋などの被害は広範に及び、被災者が45万5000人余りに上ったことが15日までに分かった。死傷者は出ていないが、家屋のほか、各地で橋や道路が損壊し、家畜は1万1515頭(匹)が死んだという。)(サーチナ) 2014年2月17日


中国甘粛省の地震

[北京 22日 ロイター] - 中国内陸部の甘粛省10+ 件で発生したマグニチュード(M)6.6の地震で、死者数が54人に増加した。地元当局が発表した。296人が重傷を負っているとしている。
新華社はこれより先、死者数を22人と発表していた。新華社によると、地震10+ 件は省都蘭州から約170キロ離れた定西市の岷県とショウ県で、現地時間22日午前7時45分(日本時間午前8時45分)に発生した。

http://www.cnn.co.jp/world/35035008.html

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★【青海地震前日4月13日 九紫火星 養蚕の始まり

大地震発生から1年…追悼の黙祷、復興の誓い新たに=青海・玉樹

サーチナ 4月14日(木)14時48分配信
青海省・玉樹チベット自治区は14日、2010年の同日に大地震が発生して1年を迎えた。同省は2011年を再建3年計画の初年に定めた。計画スタートの今年が、復興の鍵を握るとされている。中国新聞社が報じた。
青海省では14日、地震の犠牲者を追悼するため、3分間の黙祷を行った。地震発生は2010年4月14日午前7時49分だった。それほど人口密度が高い地区ではないが、建物崩壊や山崩れで2698人が死亡、270人が現在も行方不明だ。
青海省は地震発生2日目の2010年4月15日、四川省にスタッフを派遣した。2008年5月に発生した四川大地震から得られた教訓を取得するためだ。同省の復興現場指揮部が発足したのは5月9日。地震発生から約2カ月後の6月13日には、国が注力して被災地の再建を目指す「復興総合計画」が発表された。
被災地復興は精力的に進められ、約5カ月間で倒壊した農民や牧民の住居の再建の相当部分を完了。都市部でも倒壊住居の再建に着手、修復可能だった住居は、修理を終えた。
同年11月下旬に、被災地は厳しい寒さのため屋外での作業が困難になった。青海省は作業中断期を利用して、2011年の再建計画をまとめた。約200億元(約2560億円)を投じて、再建3年計画のうち65%を完成させる方針で、8月末までには農村部の住居をすべて完工、都市部分の住居の大部分を完工させる予定という。
 

http://www.bo-sai.co.jp/seikaijisin.html

中国四川省 7月に「真夏の雪」四川省の高原で30cmの積雪   2011.07.11
四川省甘孜康定折多山では13日から、30センチの積雪が記録された。
[雪][雪][雪]

ichigo.gif甘粛省・青海省玉樹地震にカンパしましょう
   【無断持出禁止】Pv.398


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モンゴルの民族音楽 青海湖 [歴史]




オルリコさん
1995年、中国西北民族学院・舞踊系に入学、専門的にモンゴル伝統舞踊を学ぶ。在学中は中国少数民族芸術団の一員に選ばれドイツ、フランス、オランダなどヨーロッパ公演に参加。モンゴル伝統舞踊家として日本で活動中の母から送られる日本のCDを聞くうちに日本の音楽の大ファンになり、2003年に来日。2008年に現在の事務所社長にスカウトされ本格的に歌手を目指すようになる。
2009年、レコード会社のオーディションに合格しデビューが決定!。父親はモンゴル相撲のコーチとしてその世界では知らない人はいないほどの存在。
母親はモンゴル伝統民族舞踏家(→舞踊家)として日本で活動中、妹イラナ(yilana)は馬頭琴の奏者、叔母はモンゴル伝統民謡「オルティンド」の第一人者歌手。『ボルジギン』姓は、チンキスハーンの一族とされ、まさにモンゴル大帝国の伝統と文化を引き継ぐ芸術一族。
http://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=39499

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馬の伝説があるぜぇ[exclamation]モンゴル村
ichigo.gif甘粛省・青海省玉樹地震にカンパしましょう
(モンゴル)馬の伝説があるぜぇ[exclamation]練馬・立野町  甲斐国から武蔵国に入り筑波山を目指しておりました(太子伝)
勅旨牧(ちょくしまき)は、古代日本において、天皇の勅旨により開発された牧場であり、馬寮などが用いる軍馬などの供給源とされた。御牧(みまき)とも。官牧には、ほかに諸国牧、近都牧が存在した。勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧の4ヶ所)の計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であった。

「秋霧の立野の駒を引く時は 心にのりて君ぞ恋しき」 練馬・立野町http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/nerimanochimei/nansei/tatenocho.html
はちおうじ・小野牧
http://www.simizukobo.com/toshoshitu/special/yuginosato.html

モンゴル伝統的乳製品から分離した乳酸菌LP432株
http://www.dairy-milk.co.jp/prejudice/nyusan.html

なんと日本人はバイカル湖が起源?
http://ure.pia.co.jp/articles/-/19480?page=3

縄文人は「胴長短足」=南方起源ではない? ―渡来系弥生人と変わらず・国立科博
時事通信 11月14日(土)5時14分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151114-00000010-jij-sctch

4000年前の人体を分析:北極の新モンゴロイドは「弥生人」のルーツ?
http://wired.jp/2010/02/12/4000%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E4%BA%BA%E4%BD%93%E3%82%92%E5%88%86%E6%9E%90%EF%BC%9A%E5%8C%97%E6%A5%B5%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89%E3%81%AF%E3%80%8C/

縄文人祖先は南と北から? 富山などで出土の人骨比較
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2503M_W4A720C1CR8000/

沖縄港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006280113.html
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-151034.html

【北方説】日本民族に高頻度に見られるGm遺伝子パターンの特徴は、バイカル湖畔のブリアートをピークとして四方に流れており、蒙古、朝鮮、日本、アイヌ、チベット、イヌイットに高頻度で、その源流はバイカル地方とするのが妥当であると推定した。Wik

【モンゴル・・日本にない遊牧民音楽】★

モンゴルデール(民族衣装)ナーダム(祭り)
http://www.ab-road.net/asia/mongolia/ulan_bator/guide/02169.html


月氏[三日月]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%B0%8F
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/zhangzhungpersia113.htm
月氏から分かれて南山羌(現在の青海省)に留まった小月氏は、その後も生き長らえ、三国時代の記録に「敦煌西域の南山中(チベット高原)、婼羌の西から葱嶺(パミール高原)までの数千里にわたって、月氏の余種である葱茈羌,白馬羌,黄牛羌がおり、それぞれに酋豪がいた。」とある。

モンゴルの民族音楽  
オルティンドー「長い歌」の意味を持つ、モンゴル民謡の代表的な歌唱法です。オルティンドーは豊かな声量で音を自由に長く伸ばして歌うのが特徴、喉を巧みに操り何通りものビブラートを使い分けます。日本民謡の追分と良く似た雰囲気を持っており、ペンタトニック(半音のない5音階)の音階で哀愁を帯びた独特のメロディーとなっています。日本の民謡の『追分』や『馬子唄』のルーツと言われている。
日本人は言葉や文化が違うから馬頭琴を聞かない。馬頭琴を聞くと草原がよみがえってくる。ヴァイオリンを聴くと神田川を思い出す。ヴァイオリンがいいのも馬頭琴があるからだ。東北民謡圏は声がいい。八木節などの民謡音階は裏日本(日本海側)、岩手県、チベット民謡、モンゴル、朝鮮に分布している。九州に分布する「まだら」節 。法華経を護持し日本に伝えた機根の優れた小国の人々(釈迦仏の機縁がある)は末法の世には法華経の功徳により天上界に生まれ変わる。文上の法華経の功徳は外面・容相に現れる。迹とは表に現れる。『復六種に東方恆河沙等の諸仏の世界を震動し、亦天華、天香、天衣、天瓔珞、天無価宝、天厨の天鉢器には天の百味の天幢、天旛、天軒蓋、天妙楽具を雨らし、天の伎楽を作して彼の仏及び彼の菩薩、声聞、大衆を歌歎したてまつる。』
岩手県 伝承音楽
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/1532/1/erar-v52n1p195-210.pdf#search='%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C+%E6%B0%91%E8%AC%A1%E9%9F%B3%E9%9A%8E'
【日本にないモンゴル音楽・何を聞いているか? モンゴルに伝えている】

[やや欠け月]黛青塔娜 DAIQING TANA
http://www.yaogun.com/artist/minzu/daiqingtana.htm#a1
心奪われる歌声、心洗われる歌声 ダイチンタナ (黛青塔娜)

http://www.j-cast.com/trend/2012/05/05130968.html

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衛星から見た古代シルクロード : (1)青海省ルート
http://www.tric.u-tokai.ac.jp/isite/sarchaeology/jseikai.html
青海省
http://www.saiyu.co.jp/special/tibet/midokoro/qinguhai1/index.html
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20110826/Searchina_20110826000.html
シャンシュンとペルシア 宮本神酒男 訳

http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/zhangzhungpersia113.htm
草原のチベット アムド
http://www.kaze-travel.co.jp/tibet_kiji042.html
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青海地震.2010/04/14 ★【青海地震前日4月13日 九紫火星 養蚕の始まり

中国・青海省地震
青海地震(せいかいじしん)は2010年4月14日、現地時間7時49分(13日23時49分 UTC)に中国西部、青海省玉樹チベット族自治州玉樹県で発生した地震である。震源の深さは約17km、地震の規模はモーメントマグニチュード(Mw)6.9[1]。中国地震局は表面波マグニチュード(Ms)7.1[2]。


中国甘粛省の地震
[北京 22日 ロイター] - 中国内陸部の甘粛省10+ 件で発生したマグニチュード(M)6.6の地震で、死者数が54人に増加した。地元当局が発表した。296人が重傷を負っているとしている。
新華社はこれより先、死者数を22人と発表していた。新華社によると、地震10+ 件は省都蘭州から約170キロ離れた定西市の岷県とショウ県で、現地時間22日午前7時45分(日本時間午前8時45分)に発生した。
 
http://www.cnn.co.jp/world/35035008.html

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歌垣と神話をさかのぼる 少数民族文化としての日本古代文学の詳細

目次:歌垣が生きていた
少数民族文化の現地研究を、 “日本文化論”との接点を意識しながら行ない、日本古代文学の全体を中国少数民族文化の一つとする視点から歌垣論・神話論を繰り広げる。日本の知識人必読。

目次 第 部   歌垣が生きていた  
1 〈古代の古代〉への遡行の旅
2 中国少数民族文化と琉球(沖縄)文化の連続性
3 白族ラオサンリンの歌の掛け合い
4 琉球・アイヌ民族も古代ヤマト族も〈少数民族〉だ
5 貴州省香炉山の歌垣は消滅していた
6 歌垣の映像記録作りの困難さ
7 剣川の石宝山で自然な歌垣に出会った
8 歌垣は〈うたのワザ〉の見本市少数民族文化としての日本古代文学 ―〈歌垣〉の意識と〈歌〉の意識―  
1 神話と文学
2 兄妹始祖神話と少数民族文化
3 歌垣の現場
4 制度に収まる恋愛と反制度の恋愛生き続ける〈古代の古代〉―― 中国・雲南に原型的な歌垣を聞く ―― 古代文学研究に少数民族文化という視点の導入を恋愛と歌垣文化のなかの〈残虐〉―― 失われた人間存在の根源への視線 ―― 少数民族文学としての古事記・万葉集―― 日本国の成立と現在 ―― 生身の世界遺産・中国少数民族文化 【初出一覧】あとがき少数民族文化調査の行程・略図
少数民族文化としての日本古代文学
万葉集の恋愛歌
葬送と歌垣-少数民族文化の現地調査報告を中心に
神話と恋愛
生き続ける「古代の古代」-中国・雲南に原型的な歌垣を聞く
古代文学研究に少数民族文化という視点の導入を
恋愛と歌垣
文化のなかの「残虐」-失われた人間存在の根源への視線
少数民族文学としての古事記・万葉集-日本国の成立と現在〔ほか〕
出版社名:新典社

歌垣 恋歌の奇祭をたずねて
著者名:辰巳正明/著
書籍紹介: 多くの男女が集い、お互いに歌をやりとりしながら思いを通わせてゆく恋歌の祭典、それが「歌垣」。中国の西南部で現在も行なわれている歌垣のようすを探り、また日本でかつて行なわれていた歌垣について、その状況を様々な資料から明らかにすることで、万葉集以来、今なお息づく歌の文化とそのルーツにせまる。


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シルクロードと唐帝国 (興亡の世界史)
http://1000ya.isis.ne.jp/1431.html

シルクロードの旅 クチャ
http://www.saiyu.co.jp/special/silkroad/midokoro/qucha/qucha.html

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 af6505af.gif古代チベット人は何を占ったのか?
http://www.kaze-travel.co.jp/oz-k-muraosa4.html

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極北の旅人 モンゴロイドの地球 4

kirakira04.2.gifシベリアの「細石刃」と木村教授
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/11gatukara/gureetojilyani/siberiaB/3/kimura.html

 4497203042.gif四川と長江文明

http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497203042&bookType=jp

七絃琴のこと ~源氏物語を起点として~
http://www.ndsu.ac.jp/department/japanese/blog/2014/06/128-1.html

【アジア音楽 = 民族音楽の授業は無くなった】
東アジア・中国・朝鮮半島。政治的論争は多く耳にしますが、音楽や文化のつながりも大切です。民族音楽概論はほとんど授業がなかった。日中韓の文化のつながりとは、竜宮伝説など日本の伝説と中国神話のつながり、神話、民話、伝統芸能などの地域交流で、相互の伝統文化を理解し興味をもつことが大切です。雅楽とみゃお族のわらべ歌の音階の類似、


676Pv.【無断使用持ち出し禁止陸長情報員工事中】2011/07
太宗の治世の末期である1257年から、雲南を占領したモンゴル軍によるベトナム侵攻が始まる。1257年の末にモンゴルの軍人ウリヤンカダイの率いる軍隊が北方の国境地帯に現れ、太宗にモンゴルへの従属を求める使者を送った。

 screenshot002.jpg玄奘三蔵


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東アジアの民族音楽 女媧伝説 [歴史]




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中国南部(苗)の歌垣を平安遷都で聞いた。・・・大歌など古代歌謡はどのように謡われていたのか。
日本・神話と歌の国家 工藤隆 著
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=4098

貴州省徳江の儺堂戯
http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/tokkou2/tokkou2.html
儺堂戯はお能のルーツといわれている

中国における『伝承機能音階』の成立と変容

https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/2767/1/chosakenkyu_25_29_104.pdf#search=%27納西+音階%27


H0000185193.jpg佐賀 歌垣公園
http://jasaga.or.jp/news/archives/283


神話のお姫さまは本当にいる

なぜ満月の夜に音楽をかなでるのか?[やや欠け月][三日月][満月]

女媧伝説

http://dreamer-tottori.com/adventur/zimototanbou/kokufu/adventur_kokufu.html

少数民族の苗族の神で、『淮南子』には共工が帝王になれずに大洪水を起こしたとき、女渚浮ヘ五色の石で天を修復し、洪水をせき止めた。その姿は半蛇で弥生時代に日本の因幡今木山に女媧伝説が伝わったとされている。
女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されている。世界を修復する説話『史記』「三皇本記」には、五色の石で補修した世界がそもそも虚れた原因を、羌族が信奉する水神共工が暴れたためとしており、苗族と羌族との戦乱が神話に反映したと言われている。


蚩尤
秦の時代までには、蚩尤は五兵(五種類の兵器)の創始者とされ、兵主神とも呼ばれて祭祀の対象となっていた。司馬遷『史記』封禅書には、蚩尤は「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられている。兵主神の祭りは、のちに日本にも伝えられた。


渡来した王女姫
春秋時代「呉」と「越」は互いに争うようになる。「呉」は太伯、「越」は禹の苗裔で 夏 后帝少康の後裔と称した。稚日女姫は中国の江南の呉王国の王女として生まれた。姉は大日女姫という。
「呉」は「越」に滅ぼされ、紀元前334年、「楚」威王は攻め込んできた越王無彊の軍勢を破り、逆に越に攻め込んでこれを滅ぼした。「楚」は紀元前223年始皇帝秦氏に滅ぼされた。当時倭国には金・水銀・鉱脈が豊かで、国の乱れから逃れて呉越同舟で南九州に向かった。
姉の大日女姫は南九州にとどまり、妹の稚日女姫は北九州に鉱脈を見つけ八幡や佐賀の嬉野へ移動した。のち四国から淡路を経て和歌山の紀ノ川に落ち着き奈良 方面にもその勢力をのばした。紀ノ川の神武天皇の軍団は稚日女姫と一族を迎え入れた。
和歌山の物語を丹生都姫伝説という。東京の西多摩郡、埼玉の川口・飯能・秩父・児玉郡には、丹生ゆかりの神社がある。


シルクロードの旅 クチャ
http://www.saiyu.co.jp/special/silkroad/midokoro/qucha/qucha.html

http://www.yumeoribito.jp/know/kiso/01/01_1.html
味摩之に関する記述 田辺尚雄先生(河慧海師の説)
味摩之とは西蔵語で不死の人(芸術家)の意味で、味摩之が伝えた伎楽は西蔵楽舞・シド神による古代印度舞楽の一種であるとしている。また味摩之とは西蔵語で百済の高僧の意味である。しかし根拠となる資料は無い。「聖徳太子伝暦」には味摩之は舞人の惣名也。と記されている。

おしらさま
おしら様は、女の病の治癒を祈る神、目の神、子の神としてのほか、農耕神として田植え、草取り、穀物の刈り入れなどに助力するともいう。また『遠野物語拾遺』には、かつては狩人が狩猟の際、どちらの山に行けばいいかを知るため、おしら様の神体を両手に持ち廻し、その馬面の向いた方角へ行く風習があったため、おしら様は「お知らせ様」であろう、とある。地震、火事などの予知力もあり、『遠野物語拾拾遺』では、おしら様を鉤仏(かぎぼとけ)と称し、正月16日の「おしら遊び」の日に子供がたちが1年間の吉凶善悪の神意を問うたという。この起源を中国の『捜神記』(晋代干宝撰)、『神女伝』(唐代)に求める説がある(「蚕女」)。おしら様信仰誕生の背景に山神信仰や、養蚕作業、生活の糧の馬に対する信仰その他が混ざり、原初的な多様な性格を有する神として成立したものとする見方もある。伝承 Wik

kkynimg.jpgシャングリラ梅里雪山

 http://www.nihonryoko.com.cn/tour/detail.php?id=299

縄文人は「胴長短足」=南方起源ではない? ―渡来系弥生人と変わらず・国立科博
時事通信 11月14日(土)5時14分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151114-00000010-jij-sctch

http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82203470R20C15A1000000/

 旧石器人、南方系の顔つきでした 石垣島の人骨から復元 2018年4月21日
https://www.asahi.com/articles/ASL4M3JX3L4MTLZU001.html

羌族信仰と嵩山中岳(五岳)
http://1000ya.isis.ne.jp/1452.html


D系統(北方古モンゴロイド)を持つ日本人の異質さが際立って見える。
またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられる。

チベット系民族の遺伝子
Y染色体のDNA塩基配列の国際的分類法(YCC2002)によるAからRまでの18種の大分類のうち、Alu配列と呼ばれる約300個の特定の塩基配列(YAP+因子)を持つのはDグループとEグループのみであり、DグループとEグループはおよそ5万年前に分化した近縁グループである。そのうち、Dグループが相当な頻度で存在するのは日本とチベットおよびアンダマン諸島のみである(日本では35%前後、沖縄では55%前後、、アイヌでは88%前後、チベットでは約30~50%、アンダマン諸島南部では100%)。
つまり、Y染色体にAlu配列(YAP+因子)を持つ者が相当頻度で存在する地域は、アジアではチベット(D1a)と日本(D1b)、アンダマン諸島(D*)のみであり、日本人のY染色体の30~40%については、DNA塩基配列が近縁関係にあるものは周辺国等になく、チベット、アンダマン諸島のY染色体と近縁関係にある[3]。WiK



遠野市で震度5強 津波の心配なし
日本テレビ系(NNN) 7月23日(土)14時2分配信

気象庁によると、23日午後1時34分ごろ、地震があった。震源地は宮城県沖。震源の深さは40キロ。地震の規模を示すマグニチュードは6.5と推定。この地震による津波の心配なし。

震度5強を観測したのは、遠野市。
震度5弱を観測したのは、花巻市、滝沢村。
震度4を観測したのは、階上町、盛岡市、大船渡市、北上市、一関市、陸前高田市、釜石市、八幡平市、奥州市、矢巾町、金ケ崎町、平泉町、藤沢町、大槌町、山田町、普代村、一戸町、石巻市、塩竈市、気仙沼市、登米市、栗原市、大崎市、松島町、涌谷町、宮城美里町、南三陸町。

皇太子ご夫妻、岩手県をご訪問 スーパーマーケットの跡地などを視察される
フジテレビ系(FNN) 8月5日(金)19時12分配信
皇太子ご夫妻が岩手県を訪問された。
皇太子ご夫妻は自衛隊機で花巻空港に到着後、津波ですべて流されるという被害を受けたスーパーマーケットの跡地などを視察され、説明を受けたあとには深く頭をお下げになる場面も見られた。
最終更新:8月5日(金)19時12分


民族音楽の授業・・・渡来人研究会(秦氏について)
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/hata

アジア音楽 = 民族音楽の授業のこと。
民族音楽概論はほとんど授業がなかった。アンサンブルの授業では、モンゴルはホーミーと言うだけでした。

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養蚕農家ぬぐえぬ不安.Kelsang Metok  [歴史]

kelsang metok- Ngayi Phayul-Tibetan song                格桑梅 004_0001.jpg

養蚕農家 ぬぐえぬ不安

繭代補填からの転換
  「『将来はこうなる』と、もっと具体的に示してほしい」「本当に、養蚕家はやっていけるのか」――。


 昨年11月21日、飯田市鼎東鼎のみなみ信州農協生産部に、飯田下伊那地方の養蚕農家31戸の半数以上が集まった。県などが開いた「蚕糸・絹業提携支援緊急対策事業」の研修会。農家は、繭代補填(ほてん)に替わる制度への不安を次々と口にした。
繭代補填の廃止を不安に思う北原さん夫婦。冬場の桑畑では、木の根元にわらなどを入れる作業がある(飯田市で) みなみ信州農協の養蚕部会長、北原公(いさお)さん(68)も研修会に出席したが、「『もうお前たちは要らない』と言われているような、新しい制度への不信感はぬぐえなかった」という。
 北原さんは、飯田市郊外の久米地区で代々続く養蚕農家に生まれた。今は妻、孝枝さん(68)と二人で、桑を育て、戸外の蚕室で春、夏、秋と蚕を飼い、年間約1・4トンの繭を生産する。20~30年前には年間5回の飼育で、計約4トン生産して1000万円ほどの収入になった。今、収入は3分の1程度で、その大半は、国による繭代補填だ。農協から勧められ、冬場にはキノコを栽培している。
 昭和40年代まで、飯田下伊那地方には1万戸以上の養蚕農家がひしめき、蚕が桑の葉を食べる「ザー」という音が、あちこちから響いてきた。「蚕の中で人間が生活をしていたようなものだった」と、北原さんは懐かしむ。
今では養蚕を続ける31戸すべてが、65歳以上の高齢者。北原さんも、公務員の長男(41)家族と同居しているが、「趣味ならまだしも、仕事として『一緒にやろう』とはとても言えない」と話す。「10年後は、もう養蚕家はいないかもしれない」というのが本音だ。
上伊那地方の養蚕農家と同事業のグループを組んでいる絹織物会社「マルシバ」(東京都)社長の木下幸太郎さん(61)の見方は、かなり違う。
 11月の研修会には講師として参加し、「品質にばらつきがない、ここの繭は『上』。製糸会社も伊那谷の糸がやっぱり一番と言っている」と、高く評価してみせた。そして、「いい繭を作れれば、必ず生き残っていける制度なんです」と強調した。
大手百貨店向けの着物を扱っている経験から、木下さんは「最近の呉服屋は、産地にうるさくなった」と指摘する。国産の繭や生糸が減り続ける一方で、純国産にこだわる人が増えてきているという。
みなみ信州農協にも、「我々とグループにならないか」という誘いが何件か来ている。新しい制度の本格化に向けて、全国でも数少ない養蚕農家が“引っ張りだこ”になっている。
それでも、北原さんは不安だ。「保護されなければ生き残れなかった養蚕が、保護なしでやっていけるのか」。そんな思いを吹っ切ることは簡単ではない。

【蚕糸・絹業提携支援緊急対策事業】

 養蚕農家と製糸、織物、染色、流通、小売りなど絹製品にかかわる事業者がグループを作り、売れる純国産絹製品作りに取り組む制度。2008年2月から始まった。グループに対して、13年度まで国が助成する。これまでに全国で6グループが誕生した。これに伴い、繭1キロあたり1418円を国が養蚕農家に支払う繭代補填制度は廃止された。同事業が軌道に乗るまでの措置として、10年度までは、同事業への移行を検討している養蚕農家に繭代補填と同額が支払われる。

(2009年1月4日 読売新聞)

日本のシルクの活性化
東京府豊玉郡杉並村大字高圓寺 蚕糸の森

むかし見た 田圃の水面 いま薄れ 絹のいとなみ いま消えんとす〈ももぞの〉

秋篠宮ご一家、養蚕展を見学 2012/3/26 19:22
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG26045_W2A320C1000000/

養蚕天女
http://mainichi.jp/graph/select/makosama/022.html

2f3ac911111.jpgナナイ

安曇野の天蚕、京都の老舗と連携し商品化 .一覧安曇野市 (2009年3月20日) .
天蚕糸を使った試作の織物と天蚕糸
 薄い緑色の光沢を持つことから「繊維のダイヤモンド」と呼ばれ、安曇野市が生産量全国一を誇る同市産の天蚕(てんさん)を使った商品開発に向け、市天蚕振興会と京都府内にある老舗呉服メーカー、織物業者の3者が19日、連携して事業体を立ち上げた。現在市内の天蚕農家は8軒のみ。同振興会は天蚕の付加価値をさらに高め、農家が安定的な収入を得られるようにして、後継者不足解消につなげたい考えだ。
京都市内で同日開いた会合で決定。3者は昨年11月から、伝統技術を出し合い、付加価値の高い商品を作ろうと、国の支援事業を活用して議論を重ねてきた。安曇野市天蚕センターで研修会を開いたり、京都府丹後地方の織物工場を訪れたりした。
事業体では、振興会が供給した天蚕糸を使い、織物業者が着物などの織物に加工。呉服メーカーが販売や商品企画を担う。2009年度から3カ年の事業計画を立て、5月までにあらためて、国へ事業実施に向けた支援の申請をする。計画では、試作品作りや市場調査を行い、09年度中に商品を開発し、販売を目指す。商品は着物を中心とし、帯締めなども試作する。
この日の会合に出席した振興会事務局長の古田春江さん(60)は「安定供給ができるように後継者を呼び込み、しっかりと育てたい」と意気込んでいた。
同市穂高有明では、江戸時代の1780年代ごろから天蚕の飼育が始まった。年間の繭収穫量は約2万4000粒。振興会によると、天蚕糸1キロは、家蚕糸1キロの約70倍の70万円ほどという。
(提供:信濃毎日新聞)


両陛下、天蚕飼育農家をご視察
2010.8.29 12:47

天蚕飼育場を視察される天皇、皇后両陛下=29日午前、群馬県中之条町(代表撮影) 静養のため群馬県に滞在中の天皇、皇后両陛下は29日、中之条町にある天蚕農家、登坂昭夫さん(67)宅を訪問された。登坂さん宅では日本で最も多く天蚕を生産してるという。天蚕は野外で育ち、緑色の繭を作る蚕の一種で、皇后さまも皇居・吹上御苑で毎年、天蚕を飼育されている。
 両陛下は、天蚕が飼育されているクヌギ畑を視察された。皇后さまは「(皇居では)スズメバチの被害に気をつけていますが、大丈夫ですか」とご質問。登坂さんが「サルの被害の方が大きいです」と答えると、陛下は「どうやってサルを避けているのですか」とたずねられていた。


【牽牛子塚古墳】日本書紀の記述そのまま「画期的発見だ」
2010.12.9 20:07
牽牛子塚古墳(後方の墳丘)の隣で見つかった越塚御門古墳の石室=奈良県明日香村 「斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬する。皇孫大田皇女(みまごおおたのひめみこ)を陵(みささぎ=斉明天皇陵)の前の墓に葬る」。奈良県明日香村の牽牛子塚古墳の前で発見された越塚御門古墳は、日本書紀のこの記述をそのまま裏付けた。大海人皇子(のちの天武天皇)の后になりながら20代で夭折(ようせつ)したとされる悲運のプリンセス、大田皇女。その終(つい)の棲家は、かつて女帝として権勢を振るった祖母・斉明天皇に見守られるかのような場所に築かれていた。
「驚きを通り越して感動した。画期的発見だ」と話すのは、前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)。「牽牛子塚古墳が斉明天皇陵である可能性は、99・9%から99・99%になった」-。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)も「日本書紀のこの時代の記述は、確実な史料に基づいて書かれているとみていい」との見方を示す。
 ただし日本書紀は、大田皇女の人となりについて多くを語らない。幼くして母を亡くし、後に謀反を名目に処刑された大津皇子(おおつのみこ)と姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)の子供2人を残して亡くなったことを淡々と伝える。


天人女房
貴州省の施洞を訪れた著者が、直接ミャオ族の古老から聞いた民話。ミャオ族の焼畑耕作などが見られ、とげや竹や山水の種をまきながら逃げる“呪的逃走モティーフ”も描かれています。中国のミャオ族に伝わる天人女房のお話。天女が夫と子を連れて里帰りすると、父親がむこに難題を課す。


内蒙古自治区の民族衣装
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 kirakira13.gifKelsang Metok.格桑梅朵

麻刈る(あさかる)麻刈(あさかり)、夏麻引(なつそひき)、夏麻引く(なつそひく)は夏の生活に関する季語。
夏引の糸(なつひきのいと)=夏蚕の糸(なつごのいと)=新糸(しんいと)新生糸(しんきいと)、夏蚕の糸(なつごのいと)、夏引の糸(なつひきのいと)夏蚕(なつご)の糸、または夏に取った麻の糸をつむぐ意ともいう。
(夏蚕・・かさん) なつごともいい、春蚕・秋蚕との中間、即ち7月上旬から中旬にかけて掃き立てる蚕をいう。上簇時期により春蚕または秋蚕に合算して発表される場合が多い。高冷地帯では、春蚕よりも夏蚕のほうが桑葉も適当なものが得られ、蚕作良好の場合が多い。
[ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)]

なつそ‐びく【夏▽麻引く】 [枕]こくご解説不備
1 夏麻を畑の畝から引く、麻を績(う)むなどの意から、「う」「うな」に掛かるといわれる。
2 麻の糸()の意から、「命(いのち)」に掛かるといわれる。
「―宇奈比(うなひ)をさして飛ぶ鳥の」〈万・三三八一〉
「―命かたまけ刈り薦(こも)の心もしのに」〈万・三二五五〉

 夏の土用 夏蚕宇奈とと宇奈比

「 命かたまけ刈り薦(こも)の 心もしのに/万葉集 3255」夏に取った麻(枕詞)命がけ(刈り薦の(枕詞)乱れて刈る紡ぐいとのよう(枕詞)心細い

私訳】古くから言い伝えて来ていることには、恋をすると苦しいものだとそのように言い継がれてよく知っているものの、(糸を紡ぐ)乙女の気持ちというものが分からず、知ろうとすれば分かりにくく、といって、知るすべもない。玉の緒命がけ)も夏麻を畑から引き抜く(刈る)よう命がけで息も絶え絶えに、(紡いだ糸)のよう心細く乱れて、人知れずむやみやたらに恋焦がれている「西本願寺訳」

夏麻】は糸を紡ぐの意から(糸を紡ぐ)乙女に掛り、それに対して(紡いだ糸)のよう心細く と返している。

[ぴかぴか(新しい)]日本の伝承・・・・・
天女は、天部に住むとされる女性のことで、天帝などに仕えているとされる女官の総称である。
古代中国より天子は天帝を祀ることを義務とされた。これらは歴代の王朝に受け継がれている。商(殷)の甲骨文に上帝の名でこのことが書かれている。
天部==天界のこと。
天帝==天帝(てんてい)は古代中国の祭祀。
インド神話の財宝神クベーラを前身とする。 ヴァイシュラヴァナ・ヴィシュラヴァス 多聞天(たもんてん)とも訳される。毘沙門天。インド神話における水の精で、アプサラス==白鳥。白鳥と白馬[ぴかぴか(新しい)] 


羽衣伝説の天女は白鳥にたとえられているが、丹後型の伝説では.天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)八人の天女の一人になっている。月天子(勢至菩薩)の相方は観世音菩薩で月天子の天女が白鳥になったのではなく、羽衣伝説や白鳥伝説と結びついたためである。
共通して(羽衣)を隠してしまうのは人間界の(欲)で、人間界と天界の違いを説き天界の天女が再び人間界に生まれ変わった時には過去の天界のことを思い出すという。虹の嫁など。

毘沙門天像の成立と展開―唐・宋から平安へ―ホータン

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2014/90.html


『能』羽衣・白鳥伝説 天女はどこへ帰っていったか
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kem/bunnka/hagoromo.pdf#search='%E7%BE%BD%E8%A1%A3%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%A4%A9%E5%A5%B3%E3%81%A8%E3%81%AF'

『竹取物語』の「蓬莱の玉の枝」は「優曇華の花」
優曇華(うどんげ)
仏教経典では、3000年に一度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという。『金光明経』讃仏品に「希有、希有、仏出於世、如優曇華時一現耳」とある。また『法華経』、『南史』にも出る。日本の古典文学では、『竹取物語』、『源氏物語』若紫、『宇津保物語』などに用例がある。 【お蚕さま】 
『竹取物語』の「蓬莱の玉の枝」は「優曇華の花」


縄文、古墳時代中国西南部の小国から日本に帰化した神話の神、人々は未来生まれ変わり、天台の時代に仏になる種を植えた。神話の神、人々そのものが仏の種になる。そして法華経を護持し日本に伝えた中国南部小国の機根の優れた人々(釈迦に機縁がある)は末法の世には法華経の功徳により天上界忉利天に生まれ変わる。文上の法華経の功徳は外面・容相に現れる。とは表に現れる。末法の衆生は皆本未有善。そして釈尊の教えを忘れた人々(釈迦に機縁がない)(末代幼稚)日本は昼[晴れ]西蔵は夜[三日月]の国土の人々に音楽や文化を再び伝えに来られるのです『大乗経を以て白馬に負せて漢土に渡す』【お蚕さま

「若し但書写せんは、是の人命終して当に忉利天上に 生ずべし、是の時に八万四千の天女、衆の伎楽を作して、来って之を迎えん。其の人、即ち七宝の冠を著て、釆女の中に於いて娯楽快楽せん」「天より四種桜梅桃李の花ふり虚空乾闥婆に音楽(妙音妙法蓮華の四字経は地)聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄四徳の香の風」「妙法 我波羅蜜・蓮華 波羅蜜・経 常波羅蜜」「故に知んぬ法華は為れ醍醐の正主」「妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり「妙楽大師 実相常住は甘露の如し是れ不死の薬」【甘露】天上の神々の飲む、忉利天にある甘い霊液。

『源平盛衰記』 琵琶鐃銅法性の深理・馬鳴菩薩は苦空曲・忉利天宮天人歌舞
kirakira12.gifチベット神話のお姫様が馬鳴菩薩になった格桑梅朵 kirakira11.gifKelsang Metok[やや欠け月][三日月][ぴかぴか(新しい)]

きよ水の 月影浮かぶ 池の水 月に宿りて 我が身も宿す(観月・観

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日本各地チベットの竹姫伝説 

『今昔物語集』 竹やぶ 光る 三ヶ月 空に昇る 「空に鳴る雷」 「優曇華の花」 「打たずに鳴る鼓」
竹姫  石川県鳳至郡 竹やぶ 月 六月十五夜の晩 天に昇る 
竹姫  埼玉県川越市 お竹 七歳 糸車 孝行 天に昇る 大日如来
竹姫  群馬県甘楽郡南牧村 竹の中 煙に乗る 天竺
竹姫  福井県遠敷郡 竹伐り かごや姫 十五夜の朝 天
かごや姫 山形県最上郡 竹伐り 十月十五日 天竺
竹姫  鹿児島県薩摩郡 竹山「赤い飯笥と赤い杓子」天に昇る[たらーっ(汗)] 
斑竹姑娘   チベット 竹山 竹林  竹娘 天女 (歌声) (馬の乳) 三年待つ ①「打っても割れぬ金の鐘」 ②「砕けぬ玉樹」 ③「火鼠の皮衣」 ④「ツバメの巣に金の卵」 ⑤「海竜の首の分水珠」 
仏説月上女経  毘耶離国 城中 楽器  月上女  十五夜 右の掌に蓮の花 空中に舞い上る 虚空 天人舞い 大地は震える 花の雨 音楽を奏でた (うつほ)
竹王伝説 貴州省 侗族 夜郎国 万葉仮名 遯水 洗い物 竹の中 男児 蛙 竹林 竹王


筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母(万葉)[ぴかぴか(新しい)]

しぐれ降る 雨霧かすむ 小筑波の  相模の峰は 明ける蒼さと (金色姫)[ぴかぴか(新しい)]


輪陀王の故事
『輪陀王という賢王は白馬の声を聞いて成長した。白馬は白鳥を見て鳴く馬だった。王はたくさんの白馬を集めて飼っていたので万民も国も栄えた。ところがたくさんの白馬が逃げ出してしまった。王はたちまち威力を失い天も曇り地も震え大風、飢饉疫病が流り他国からも攻められた。王は外道の法師を集めて祈禱した。しかし白鳥も白馬も現れなかった。そのとき馬鳴菩薩というひとりの僧が外道の祈りを止め仏教に祈禱すれば白馬を鳴かせることができるであろうと王に進言した。王は馬鳴菩薩に祈祷を命じた。たちまち一羽の白鳥が何処からともなく飛んできた。白馬は白鳥を見て鳴いた。千羽の白鳥が集まると百千の白馬も同時に鳴いた。大王も元気になり后も喜び人々は手を合わせて拝んだ。他国の者も王に頭を下げた。』

月うさぎ  月で兎が不死の薬をつくという故事が中国に残っている。北京城下の流行り病を見かねた月宮の蟐娥が玉兎を地上に降ろし病を治したという故事もある。この不死の薬が餅つきに変化して望月となったそうだ。
インドでは月のことを兎といい、また今昔物語には「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三の獣ありて、共に誠の心を発して菩薩の道を行ひけり。」身を焼いた兎が永遠に月に住む事を許され、古くから月の使者と言い伝えられている。


チベット神話と北斗七星とこと座kirakira03.gifチベットモンゴルに伝えたいだけkirakira03.gif

チベットのタンカに夜の女神として描かれているターラー女神(風)多羅神(ターラー)。北斗七星は占星の天枢星で道教でも崇められチベットに伝わった。多羅(ターラー)とは眼、瞳(瞳子)のことで闇夜を光明をもって照らし、星の意味をもつ。チベットの緑ターラーは大地の神とされ(瞳)にたとえ、白ターラーは大海を白目とたとえられている。不思議なのは多羅神(ターラー)は『川を横切る』という意味があり、チベットのタンカにも織女星(こと座のベガ)が描かれている。日本では(こと座のベガ)が妙見星(たいへん視力良い)とされている。唐から多羅神(ターラー)が伝わり摩多羅神となったという伝承があるkirakira03.gif【お蚕さま】

二十八宿に新しい生命が誕生した。星に命が誕生したと同時に地球上でも織姫が生まれてくる。


12月1日 英王立天文台の研究チームは、織姫星として知られる、こと座の恒星ベガが、地球に似た惑星を持っている可能性があるとの分析結果を発表。電波望遠鏡で観測した結果、海王星ほどの惑星が海王星と同様の軌道で回っていることを発見し、その内側に地球型惑星がある可能性を指摘している(織姫)
http://astro.ysc.go.jp/izumo/tanabata.html

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陣馬高原・八王子上恩方 明和4年丁亥六月吉日 馬鳴信仰http://www.hachioji-kankokyokai.or.jp/yuyake/y-top.htm

141901.gif九寨溝民俗文化村
http://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/china/people's_republic_of_china/JZG/105333/

チワン族の伝統文化としては銅製の太鼓「銅鼓」も知られている。銅鼓は中国南部からベトナムなどにかけて、出土品も多い。銅鼓は宗教的な意味を持つ楽器として使われてきた。また、インドネシアのガムラン音楽で多用されている銅製のゴングとの関連を指摘する声もある。
チワン族などに伝わる民族楽器。
天琴は撥弦楽器(弦を弾いて演奏する楽器)の一種で、ベトナムから広西チワン族自治区にかけて伝わっている。現地語では「ディン」とも呼ばれ、1000年前から演奏されているとの見方がある。龍州では出土例もあるという。
抱えて演奏する弦楽器の分類上の着目点のひとつに、棹(ネック)と共鳴胴の関係がある。中国の二胡や三弦などは棹が共鳴胴を貫通しており、琵琶では共鳴胴の上部と棹が一体化している。天琴は前者で、基本構造は中国の三弦が日本に伝わり改良されてできた三味線に近い。


長江文明・・・
稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。

http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
[有料]歌垣と神話をさかのぼる
 少数民族文化としての日本古代文学
[有料]


http://homepage3.nifty.com/offi-kd/sub02110.html

[グッド(上向き矢印)]基本的音律の確立より[るんるん]

http://www.sketto.com/densuke/touyou/2_1.htm

平安わざうた慣例律 雅楽の理論は学校では教えていない

中国四川省の南部高原地帯の、貴州省に居住する苗族やチワン族に伝わる歌墟の芸態 は、我が国の古代の《風土記》や《万葉集》などにも記された習俗芸能、『歌垣』(X歌) と全く同様のものを今に伝えるものとして有名です。


http://www.china.jpn.org/55.htm
羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2009-11/19/content_18917565.htm

お田植え、ご養蚕 ルーツは古代中国の帝王儀礼
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/01291/contents/071.htm

ただガムランについては、学校で2002年に『祭祀として残っているのは、インドねしあのガムラン音楽だけだ』というお話を聞いただけだ。しかしインドねしあだけではなかった。日本の宮中行事の祭祀も中国の農村祭祀も厳然として残されているし、農村祭祀と万葉の習俗芸能『歌垣』の土俗的音楽文化が宮中音楽文化に影響を与えていったこと。小数民族の農村祭祀や『わらべ うた』などが平安期以前の土俗的音楽文化の手がかりになるということが、雅楽の理論で解き明かされている。


[三日月]①伝播②渡来説③神話が同時に発生[三日月]

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インドの神話・・・シュメール族の発祥は中央アジア崑崙(コンロン)、コタン文明を築いた。インド文明のアーリア人、ポリネシア、マレーシア、インドネシアの民族もシュメール族である。また釈尊は須彌王・スメルもシュメール族の子孫。また印度の月氏も中央アジアを根拠地としている。須彌王・スメル王は日本神話ではスメラノミコとされ、天照太神は大日如来の仮の姿とされ、聖徳太子以降の王族(王朝)は南岳大師すなわち(観世音菩薩)の末流なのです。光明皇后。シルクロードの中心都市は和田(ホータン)でホータンは、中国外で絹が生産された初めての場所だった。涿鹿の戦いで蚩尤に加勢した九黎族は三苗族となった。九黎族は苗・ミャオ族(モン)族の祖先です。崑崙山に黄帝の宮殿がありました。黄帝の妻の雷祖は養蚕を始めその後四川にながれついた。後漢書』西羌伝では「羌の源流は三苗、姜氏の別種」(日本音楽史)【水難の相・・スマトラ[三日月][やや欠け月]

『古事記』における養蚕起源神話
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/2697/1/gakushuinjyoudai_19_29_38.pdf
中国 四川省 九寨溝でM7.0の地震 中国地震局  8月9日 0時37分

中国地震局によりますと、日本時間の8日午後10時19分ごろ、中国内陸部・四川省の九寨溝を震源とするマグニチュード7.0の地震がありました。震源の深さは20キロと推定されています。

中国国営の新華社通信は、現地では家屋が倒壊しており、住民たちが速やかに避難を行っているとの情報を伝えています。

また、国営の中国中央テレビは、現地の映像を伝え住宅の天井の照明が大きく揺れている様子がわかります。

九寨溝は、世界遺産にも登録され、中国有数の観光地になっています。

一方、新華社通信の英語版によりますと、震源からおよそ300キロ離れた四川省の成都でも揺れが感じられたということです。

四川省では過去にもマグニチュード7.0以上の地震が起き、多数の被害が出ています。NHK 月齢15.7[満月]

中国 四川省の地震 20人死亡431人けが 救出活動急ぐ 8月10日 18時20分

8日、中国内陸部・四川省の観光地、九寨溝で起きたマグニチュード7.0の地震では、これまでに20人が死亡し、431人がけがをしていて、山崩れなどで道路が寸断される中、中国当局が救出活動や被災者の支援を急いでいます。

中国・内陸部の四川省では、8日夜、九寨溝を震源とするマグニチュード7.0の地震が起き、地元政府によりますと、これまでに観光客を含む20人が死亡し、431人がけがをしました。現地では、広い範囲で山崩れや落石によって道路が寸断されており、中国当局は救出活動を急ぐとともに、救援物資を運ぶなど被災者の支援を進めています。NHK

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170810/k10011096181000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_001

★Pv.8629 【無断使用持ち出し禁止 太鼓///全盲】2010/12 養蚕農家 ぬぐえぬ不安 Kelsang Metokkirakira12.gif 歴史 8,631.8722



吉祥天女の舞いを吉祥のしるしととらえ、役行者とともに、伊勢神宮内宮に祀られる女神(天照坐皇大御神荒御魂瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている。吉祥悔過会とは奈良時代に始まったもので、年の初めに宮中や諸大寺において吉祥天像を祀り、過去の罪障を悔い改める(悔過)とともに、国家の繁栄や国民の幸せ、五穀豊穰などを願って営まれたものである。『続日本紀』には天平神護3年(767年)称徳天皇によって吉祥悔過会が行われたことが記録されている。

「若し但書写せんは、是の人命終して当に忉利天上に 生ずべし、是の時に八万四千の天女、衆の伎楽を作して、来って之を迎えん。其の人、即ち七宝の冠を著て、釆女の中に於いて娯楽快楽せん」 三身三徳 金法身・黄金の光 光報身・慈悲智慧の照 明応身・広大利益を与える『化身=事が同・応身=意が同・法身=体が同 我と常』楽=自在神力(用) 『所有の法(名) 自在神力(用) 秘要之蔵(体) 甚深之事(宗) 宣示顕説(教)』

金光明経「三十三天忉利天各瞋恨を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」
蒙古 金光明経「悪人を愛敬し善人を治罰するによるが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇う」「本果妙を明さば、本初所行の円妙の因は、常楽我浄を契得し究竟す、乃ち是れ本果なり 」【無断閲覧持ち出し禁止【 」偏差値50以下おことわり)学会員偏差値40 】

 


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愛知 奥三河 ☆花祭り☆ [歴史]

愛知 奥三河地方   ☆花祭り☆
東三河・・・方言や宗教、食文化などをはじめとして文化的にも尾張地方や西三河地方とは大きな差異があるとされ、現在でも愛知県内において独特の風土や文化を保っている。

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花祭り(はなまつり)は、愛知県北設楽郡の豊根村(旧・富山村)や東栄町、設楽町(旧・津具村)で行われる霜月神楽。室町・鎌倉時代に奥三河にもたらされ、 17ヶ所に現存する祭り。稚児たちが愛らしく舞う「花の舞」、巨大な面影の鬼が鉞をかざして舞う「山見鬼」「榊鬼」など、さまざまな舞が夜を徹して行われ る。
奥三河(おくみかわ)の花祭(はなまつり)は、奥三河(愛知県北設楽郡の豊根村・津具村・東栄町)の各地域で11月から3月にかけて行われる神楽です。類似の祭りは浜松市北部山間部や阿南町等にもある。


天白信仰
天白信仰(てんぱくしんこう)は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰である。その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっている。
信仰の対象・内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった。天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。

141901.gif白馬=神馬=陣馬 [どんっ(衝撃)]ボン教 祭司 鬼面舞[どんっ(衝撃)]

似ている文化があるかもしれない!!!
[ぴかぴか(新しい)]白馬チベット族[ぴかぴか(新しい)]

白馬チベット族の人々は山腹に共同で焼畑を開き,ソバや麦等を栽培してヤクやヤギを飼育し,生活を送ってきたそうだが,近年は,漢方薬材採取を主な現金収入源としているそうである.同族は伝統的な暮らしが根強く伝えられ,羽つきの白いフェルト帽と色鮮やかな民族衣装を日常的に身につけ,固有の白馬チベット語を話すそうである.1階部分の一部は土間になっており,どちらかと言うと漢民族の神様に見える絵が貼ってあった.(白色信仰)[かわいい][かわいい][かわいい]

正倉院の七星剣、呉竹鞘杖刀(くれたけさやじょうとう)には北斗七星が刻まれている。古代中国では北極星(天帝)は宇宙の中心を意味し、北斗七星は(天帝)を守るとされている。
織女星と妙見星
織女と牽牛の伝説は天上の(東と西)の対比でした。後に『淮南子』には西王母が崑崙山(地名の崑崙・コンロンとは別)に住んでいて、土神(地)と崇められている。これは(天と地)の対比になります。
南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記されています。また殷芸の小説で、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」と七夕の原型が伝承されました。
道教や陰陽五行の北斗の星神信仰は日本に伝わり陰陽道の影響を受け、天皇に許された。後に民間に伝わり(太白=金星=明星)と同一されます。多くは武家に信仰された星信仰は、千葉県と関西に多く分布し神社として残っている。また大阪の『摂津名所図会』の明星池には、『天満大工町にあり。諺に云ふ、菅神初めて鎮座の地なり。むかしこの所に霊松ありて、 菅公明星とあらはれ、その梢に降り、この池水にうつりたまふなりとぞ』と、『明星とあらはれ、その梢に降り』などの明星・金星の降星伝説が残されている。織姫
[ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)]

中国の神話 『竹娥』 プイ族
竹娥は機織の美しい娘だった。竹娥を妾にしようと領主が、竹娥の夫に難題をふきかけ牢にいれてしまう。そして竹娥にふたりの使者を迎えにつかわせた。逃れようと竹娥は川にとび込んだ。とめようとした使者の手には竹娥の帯だけが残った。竹娥は子供の頃からこの帯の刺繍をしていた。やがてこの帯は虹となり月にまで達した。竹娥の夫は牢を抜けだし白く輝いた虹を渡って月にたどり着いた。竹娥は月で美しい錦を織り続け霧や虹になった。 


嫦娥奔月の嫦娥
后羿の妻である嫦娥(嫦娥仙子)が、后羿が西王母から貰った不老不死の霊薬(または天上界へ行ける霊薬)を飲み1人月へ昇り月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事である。
『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられる。
道教の「太陰星君」は月を神格化した神様で、月娘あるいは月神とも呼ばれます[やや欠け月]

仏教では、月宮殿の対として日宮殿(太陽)が存在しており、須弥山を中心とした世界観に登場している。日宮殿は縦横の広さが51由旬、月宮殿は49由旬あるとされる(神話でないと理解できない)weather11.gif

http://www.library.toyohashi.aichi.jp/oshirase/sonota/H21.kin-oni.onisama.pdf#search='鳥 神楽 田楽'[かわいい][かわいい][かわいい]

鳳来寺山https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=756
和銅7(714) 養蚕。出羽国。とあります。絹を納めたとはありませんが、出羽国ではじめて養蚕を始めたというニュースの収録と思えます。
四川民族歌舞团: 《天地吉祥》


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富士 吉田うどん [歴史]

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徐福伝説 富士吉田
徐福伝説は日本各地に点在しています。そのひとつが富士吉田市。
徐福は「東海の蓬莱山島は全世界の大元祖国にして、大元祖の神々が居られる御国にして、この蓬莱山島には長生不死の良薬有り。この良薬を用い給えば千万年寿命を保つ良薬なり。」と始皇帝に進言して東方の不二蓬莱山を目指しました。紀元前244年6月、徐福の船団は男女五百人と八十五隻の船で旅立ちました。一行がたどり着いたのは紀伊の国でした。紀伊の国に3年滞在した。すると老翁があらわれ、不二蓬莱山はここではなく東方にあると告げました。再び不二蓬莱山をめざして航海し宇記島原(駿河浜)に上陸した。富士山をまわり不二山高天原に到着した。徐福と一族は大室・中室・小室に住み、大工、土師、織師、織子・幡織子、衣類縫子、水引師、金銀や鉄、水油、酒、醤油を製造し、養蚕を行い御女には糸を織らせた。「是れ徐福の詐には非ず。後に応に不死の薬有るべき故に、自然に預め蓬莱山の名を立つる故なり。」 
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神奈川 藤沢の伝説
徐福の子孫は、「からこさん」と呼ばれ、大磯から上陸して秦野に定着したという伝承である。また、丹沢山系から降りて定着した「からこさん」の伝承もあったという。
「唐子さん」の伝説には「孫仏(塔の岳)の山頂から相模国横野村に「唐子さん」が定着して村の鎮守となった」。丹沢から横野に降りてきたの「唐子さん」と大磯から上陸して秦野市本町に定着した「唐子さん」伝承がある。大磯から上陸した唐子さんは徐福ではないかと言われている。延暦十九年に富士山が噴火し山中湖村に住んでいた秦氏が藤野から丹沢を経て秦野市に移動した徐福伝承がある。
 徐福とは別に秦野市の大日堂には  
  『応神天皇十五甲辰年自漢土秦苗裔守護来而安当山彼又住故名此里於秦後孫秦川勝再加力 云云』 秦川勝の伝承があり、秦川勝の時代よりも後の伝承である。
 5世紀の後半に葛野地方に定住した秦氏が古くから相模国に定着していた。天平15年には相模守秦井出乙麻呂の名が見られる。徐福伝承は紀元前219年に徐福が日本に旅立った。富士吉田、河口・吉田、山中湖村、河口湖村に徐福一行が訪れた。相模国の徐福伝承は秦氏と徐福一行がもたらしたものと思われる。徐福の末裔が秦氏であるという一説もあるがはっきりしていない。

富士吉田うどん
http://www009.upp.so-net.ne.jp/udon/

kouji1.gif60019.gif無断閲覧持ち出し禁止(片●書店見るな(鉄囲せん剣ヶ峰だけ)「梵天帝釈来下わからないでネトウヨ指導」お寿司で応援)60019.gif 」偏差値50以下おことわり)学会員偏差値40 】 陸長情報員工事中32543.gif114652.gif110327.gif(自衛隊見るな)

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中国・甘粛省 土石流 [歴史]

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土石流によって破壊されたビル 中国・甘粛省 2010年8月9日

未明に雷のような音が響き、すぐに激流が襲ってきた」。大規模な土石流に襲われ、死者127人と1300人近い行方不明者を出した中国・甘粛省甘南チベット族自治州舟曲県で、現地の住民は恐怖の瞬間を中国メディアに証言した。現場一帯は一面、泥や岩で埋まり、鉄筋コンクリートのビルが破壊されるなど、土石流の威力のすさまじさを物語っている。

 「4階建ての建物が埋まった所もある。無数の人々が閉じ込められている」。住民はこう証言した。300戸が流されたとも言われる現場には倒壊した建物が無数に見える。他の住民は「2階建ての家が土石流にのみ込まれた。中には家族4人がいたが生死もわからない」と肩を落とす。

 救助活動には、蘭州軍区などから兵士ら数千人が急派されたが、泥やがれきが作業を妨げている。

 新華社などの報道によると、救助隊が発生約20時間後に50代の女性を家屋の中から引き上げた。現地入りした温家宝首相も救出現場で、生存者に向かって「動かないで、すぐに助け上げる」と呼びかけた。現在までに倒壊家屋の下や屋上から1242人を救助したという。

甘粛省の土石流災害が起きた原因、四川大地震と干ばつが関係
2010/08/09

  甘粛省甘南チベット自治州舟曲県で大規模な土石流が発生したことについて、国土資源部、甘粛省国土資源部門などの専門家からなる調査チームは現場調査を行い、土石流の発生について分析を行った。中国国際放送局が伝えた。

  原因の1つは、風化が進んだ岩石の地盤が緩んだこと、2つ目は、現場は四川大地震の被災地の一つで、地震によって周辺の山の岩石がもろくなったこと。3つ目は、2009年末から続いた干ばつで岩石にひびが入り、雨水が容易に浸透したこと、4つ目は7日夜に突然豪雨が降ったことが重なり、土石流につながったという。

  専門家と国土資源部門の調査チームは、現場で2次災害が発生する可能性があるかどうか、さらに綿密な調査を行っている。

月齢 18[満月][やや欠け月][三日月]


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馬とお蚕さま [歴史]

戦国時代には多くの刀鍛冶、鉄砲鍛冶が武器の生産に従事した。多くの場合城下の一角に集められ、大名や武士の注文に応じた。各地に「鍛冶町」の地名が残るのはその名残である。W
実際に区西部のある村のわからない地名が古河・古い川という由来だったり、秦野氏・秦氏の稲荷信仰の神が鍛冶と関係していた。このことで鍛冶屋が存在しない区の養蚕農村に鍛冶屋の字・地名だけが残っているのも秦氏が関係している。中学ん時、歴史クラブの先生も鍛冶屋の地名の由来はわからないと言っていた。
『古事記』では火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)とは火の神、鍛冶の神として信仰されている。
応神天皇・八幡の時代に渡来した「弓月の君」。日本書紀応神紀に帰根の優れた秦氏。ウズベキスタンのイリ川から「弓月の君が百二十県の民を率い、大挙して日本に渡来、移住す。5世紀初頭には伽耶国から騎馬民族集団が忽然と姿を消したとされている。
★【太白・金星=風】占い★
星神kirakira11.gif水神・安産などの天白信仰は伊勢参りが元とされていて伊勢参りの風習がある。 風土記

馬とお蚕さま
黒姫山伝説 越後の国 日本神話
黒姫山伝説は西頚城郡一の宮村黒姫山鎮座の奴奈川姫命であって、越後の大国主命の妃で機織など土民に教えられたので、機織りの神として合せ祀る。と記されています。
陰陽五行の地のうちの一つ水を司る神です。容姿はラ蛇、うなぎ、タニシ、龍などとなって現れる。農作物がその化身とされることもある。
罔象女命・・・水波能売神 弥都波能売神
「罔象」は、中国の古典によると『淮南子』氾論訓の注に「水之精也」とあり、『荘子』達生に「水有罔象」とある。


馬頭琴を知らない音楽教員は馬頭琴を聞きましょう
馬鳴菩薩 めみょうぼさつ 馬とお蚕さま 戯曲と音楽 花祭り
八王子では養蚕の神として馬鳴菩薩をまつり上恩方町には石碑に銘の馬鳴菩薩像があり,元来,中国の民間信仰に由来し,衆生に衣服を与える菩薩,養蚕織物の神としてまつられ,仏教の伝来とともに日本に伝えられ平安時代の記録にも残っている。

中国の民間信仰をなぜ八王子や養蚕の地域の人が信じ、伝説になっているのでしょうか。
仏未出家時 所生八王子 見大聖出家 亦随修梵行
源氏物語 若紫 「優曇華の花 待ち得たる心地して 深山桜に目こそ移らね」

『源平盛衰記』 琵琶鐃銅法性の深理・馬鳴菩薩は苦空の曲・忉利天宮天人歌舞

000000019.jpg 二里頭遺跡
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200502/teji-1.htm
応神天皇・秦河勝・聖徳太子・道鏡・和気清麻呂・光明皇后・桓武天皇これらの時代の方々が最近になって歴史上でとりだたされてきている。この時代と【同じ時代】が現代のような気がします。
戦後昭和30年後半、蚕糸から科学繊維に変わり、時代の変わり目となった。再び【同じ時代】がやって来る。
筑波嶺の、新桑繭の、衣はあれど、君が御衣し、あやに着欲しも 万葉第十四巻 【お蚕さま】【衆生に衣服を与える菩薩】
筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母


Kelsang Metok  Sky Marriage.flv_000128071.jpg kirakira04.2.gif桑梅朵.Kelsang Metok

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『漢書』天文志 哀帝の4年に「縦目人が来る」 羌や蜀が戈を追いやった

チャン族羌 qiāng
古代の商王朝(紀元前1000年前後)時代の甲骨文字の資料に記載された、3000年前の殷代の遊牧民“先”の末裔と考えられている。古代の“先”は蔵族や漢族と融合し、一部が中国西南部の岷江や大渡河、雅聾江などの大河に沿って南下した。現在これらの大河流域に居住する四川省西北部の蔵族諸集団や普米族などは、古代羌族の一分支である。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241438

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241375
馬頭観音と馬頭娘
道祖信仰では馬頭観音もよくみられる。江戸時代、近郊農村では野菜などを荷車に積んで市ヶ谷や四谷などに売りにいき、代わりに下肥と交換することもあった。馬子や馬追いが多くおり、また馬の供養や病気にならないように馬頭観音が祭られた。
馬頭観音は馬頭明王とも呼ばれ、群馬では馬の沓が蚕が病気にならないと言う伝説がある。もっとも馬の伝説では東北地方のオシラサマが有名である。オシラサ マは馬頭(男神)と娘頭(姫神)の複数体で老巫女が語る。馬頭とは馬頭人身の鬼で地獄の獄卒のことをいい、馬頭娘は蚕女のことである。
オシラサマの風習は奥州地方ではイタコが年に一・二度、旧家に尋ねてオシラサマを踊らせ一年の吉凶や田植えの時期などを占った。小正月になると女児がオシラサマの顔におしろいを塗り化粧をして、白い布の新しい着物を着せる。ことを『おせんだく』するという。
「馬姫婚姻譚」がイタコ によって語られたが、『捜神記』がどのように伝播されたかは不明だが、『弱った馬に念仏を唱えると生き返った』 という馬の伝説は武蔵野にも残っている。馬が娘を乗せ天界に去っていき、再びその姿を見せた時『白と黒の虫』が天から降ってくる。『白と黒の虫』とは馬頭 と娘頭であり、『おせんだく』でおしろいと白い布も『姫の姿の白い虫』も同じ白である。

 『捜神記』では
「旅に出た父に対して娘が寂しさのあまり父を連れ戻してきたら結婚してあげようと馬に伝える。馬は本気になり言うとおりに父を連れ戻す。しかし娘は冗談だと言って拒絶し怒った父は馬を殺す。」
「馬姫婚姻譚」では馬と娘が最初から仲がよく慕っている。このような違いはあるが、他の話はほとんど似ている。

道教の「蚕女説話」には人間の娘が蚕の神になった話がある。

『帝?高辛氏の時代、蜀(しょく)という国(四川)に ある男が賊にさらわれた。一年たっても二年たっても男は戻ってこない。男の妻は『夫を連れ戻してきたら家の娘を嫁にあげましょう』と公言する。その話を聞 いた馬が家を駆け出して無事に夫を連れ戻す。妻は困って夫にわけを話すと、馬に娘はやれないと馬を殺してしまう。そして馬の皮を庭にさらした。ある日、馬 の皮が舞い上がり娘に巻きついてどこかへ飛んでいってしまう。十日経って馬の皮が木に引っかかっていて娘は蚕となり、糸を吐いていた。その木は桑と呼ば れ、繭はたんへん大きく大豊作になったという。』

オシラサマは東北地方の馬文化により受け入れられやすく、馬よりも馬の世話や養蚕、機織りをする女性が美化されているところから養蚕の神『蚕女』となって いった。木乃花咲耶媛(このはなさくやひめ)が富士の火山、酒造り、五穀豊穣、養蚕の守護の女神であることからも『桜の美とお姫様』というお姫様神話から 生まれたことは自然なことである。

馬鳴王と馬鳴菩薩信仰
「皮影戯」(ピーインシー)は動物の皮を使った影絵劇で、中国浙江省東部嘉興市の養蚕農家で蚕がふかする時にまゆ玉の豊作を祈願する、「皮影戯」を行った「蚕戯」があった。「蚕戯」は蚕花五聖の説話を演じ、最後に「馬鳴王」を演じた。「馬鳴王」は白馬に乗った馬鳴王菩薩が蚕の誕生から絹糸の出荷まで見守っていて、宗教儀礼としての要素がある。
 日本では蚕神として馬鳴菩薩信仰や蚕玉信仰があり、東北、関東、中部、東海地方の養蚕地域に広まった。
 東インドの馬鳴菩薩は中インド華氏城民衆を戯曲で教化した時に、500人もの王子や人々が出家したといわれる。付法蔵 の一人でバラモンの論師だった仏教に帰依し「大乗起信論」をあらわし外道・小乗経を破し大乗経を広めた。
養蚕神としての馬鳴は中国の民間信仰より起こった。馬鳴菩薩は馬頭観音と同様に道祖神と一緒に祭られる。また馬鳴は蚕中に化生することに関係している。八王子上恩方の馬鳴菩薩は石に菩薩が彫られていて、数珠と宝珠をもっている。上田市秋和の正福寺の馬鳴菩薩は右手に桑、左手に蚕を持っていて白馬にまたがっている。

多摩のおしら講
多摩地方では西多摩・青梅などに多くみられた。おしら講は女性の日待ちで、「拾芥抄」の蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば百倍の蚕が得られるという伝説が六朝時代の中国南部の『荊楚歳時記』 より伝わった小正月の「小豆かゆ」の伝統行事と「女日待」という風習がかさなり講となった。秋蚕がすぎ養蚕の収入がはいり、次の農繁期までの里帰りできる休暇であった。里芋の煮物やさつま芋、だいこんの漬物などをつくり集まった。もともと「講」とは庚申講などにみられる男の集まりに対して女性の休暇は少なかった。
「女日待ち」は「日・月・庚申の待ち信仰」のひとつで、蚕影山信仰などを持つ地域以外は特定の寺社信仰ではなく、ひな祭りに近い伝統行事、年中行事であった。また小豆かゆとまゆ玉餅の風習も同時に行われていることから、道祖神のどんど焼きの団子がまゆ玉団子と変化していった。

養蚕の起源  ☆四川―羌族―養蚕―馬頭娘☆
中国の元の王(おうてい)が書いた『農書』(1313)の巻6に、「淮南王(わいなんおう)蚕経にいう 黄帝元妃西陵氏始めて蚕す」の文章が載せられていて、これが養蚕の起源として広く引用されている。系譜上での黄帝は、中国最古の王朝といわれる夏(か)の祖先の禹(う)のさらに祖先にあたり、現在歴史学的にはその実在性が否定的である。しかし、このようなことから中国では非常に古くから養蚕が行われていたということが想像できる。
 一方、考古学的遺物から、殷(いん)代(前17世紀~前11世紀なかば)には養蚕が行われていたと思われる。すなわち、殷墟(いんきょ)から発掘された甲骨文のなかに、蚕、桑、糸、帛(はく)などの文字があること、さらに青銅の斧(おの)や壺(つぼ)に付着していた布が絹織物であることなどから、殷代の黄河流域で、世界で初めて養蚕が始められたのであろうと考えられている。

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月生十五日 [歴史]

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月生一日 人気在足少陰 至足心・・・少陰腎経・・・耳・冬・水
月生二日 人気在足内踝後、足少陰・・・少陰腎経・・・耳・冬・水
月生三日 人気在股裏・・・・・
月生四日 人気在腰中輸・・・・・
月生五日 人気在承漿、又懸顱、又舌本・・・承漿、陽明胃経・・・唇・土用・土
月生六日 人気在足太陰、大指、白節上、太衝脈・・・太陰脾経・・・唇・冬・水
月生七日 人気在足内踝上、与足厥陰交・・・(神灸経綸)
月生八日 人気在魚際、股内廉・・・太陰肺経・・・.鼻・秋・金
月生九日 人気在陽明、足趺交脈・・・奇經八脈・陽明・土用・土
月生十日 人気在足陽明、趺上五寸・・・陽明胃経・・・唇・土用・土
月生十一日 人気在口歯鼻柱・・・
月生十二日 人気在人迎、髪際・・・陽明胃経・・・唇・土用・土
月生十三日 人気在頭。遂当両乳間・・・任脈
月生十四日 人気在陽陵泉、又胃、又陽明・・・少陽胆経・春・木
月生十五日 人気在巨虚上下廉・・・陽明胃経・・・唇・土用・
うさぎ
月毀十六日 人気在足太陽、目眥、風府・・・督脈
月毀二十三日 人気在髀厭中・・・少陽胆経・眼・春・
月毀二十八日 人気在脚内廉・・・《甲乙经》阴谷・腎・耳・冬・水

馬王堆漢墓医書(まおうたいかんぼいしょ)
合陰陽方・・・男女和合
月生十五日  不可(能)合陰陽・・・陰と陽・男女は和合することは出来ない。かぐや姫はお月さまに帰ってしまった。
身形尽具・・・身と形がそろっていること。[満月][満月][満月]
陰の中にも陰と陽が存在し、陽の中にも陰と陽が存在する。十二支は陰の終わり、陽の始まり。[満月][新月]
ドラゴンフルーツ・サボテン科
大潮・・・・満月と新月にしか咲かない。
月下美人
満月または新月の夜に咲く。

http://www.fukuoka-jma.go.jp/shimonoseki/doc/09summerfallchoui.pdf#search='大潮 振動'

月は水をとる・・・真皮の水分が経絡に作用するならば、バイオタイト理論と同じ。
http://iroha-japan.net/iroha/A05_zassetsu/02_doyou.html
土用の宇奈とと[リゾート]
http://color.media51.net/shidousuu/ドレミとからだ
月生十五日・土用・
 3月31日 五黄土星
 4月30日 八白土星
 5月29日 一白水星
 6月28日 四緑木星
 7月27日 四緑木星
 8月25日 二黒土星
 9月24日 八白土星

月毀二十三日・春・  
4月8日 四緑木星
  5月8日 七赤金星
  6月6日 九紫火星
  7月6日 三碧木星
  8月4日 五黄土星
  9月2日 三碧木星
 10月2日  九紫火星

月毀二十八日・冬・
 4月13日 九紫火星
 5月10日 九紫火星
 6月11日 五黄土星
 7月11日 八白土星
 8月8日  九紫火星
 9月7日  七赤金星
10月7日  四緑木星

星座と四大元素

木星 火
火星 火
土星 地
金星 明星[ぴかぴか(新しい)]悪い風[やや欠け月]天女ー明けの明星

水星 地
太陽 火
月 水

土用===陰陽半
音階 五音(声) 角ミ 徴ソ 宮ド 商レ 羽ラ
二音 変宮シ 変徴#ファ 
陰陽半・・・陰の終わり陽の始まり。
土用==月生十五日===宮・ドの音、同じ協和音で月下美人は花開く。
535px-Dissonance-a220-a440-notated.jpg
どのような幾何学模様になるのか
雷さんは太鼓をもっている。雷さんは井戸に落ちる。[雷][雷][雷]
お琴は邪気をはらう。土用は邪気・悪い振動。地震のときには雅楽。[次項有]お琴は龍。鍼も龍。古代中国の地震計も龍でできている。

説明されていない衛気
気 水穀の精微よりなる。活動性が高く脈管に拘束されない。肌表を保護して外邪の侵入に抵抗。汗腺を開閉する。臓腑を暖める。[がく~(落胆した顔)][グッド(上向き矢印)][いい気分(温泉)]

obj09.jpg

古墳時代
春「木気」けやき・酸素
夏「火気」熱気・日射・放射熱・輻射熱
秋「金気」銅・鉱物・鉱石
冬「水気」 湿気・流れ

国・地域によって天文潮位の違いにより、お琴や太鼓・笛などの形・音色の相違がみられる。これは波の相違による土地の微振動数の相違により動物・植物・楽器・川・泉・イオンなどの固有振動数が変化しているため。日本は大和琴・伽耶国は伽耶琴・中国は中国琴・サンシン、モンゴルの馬頭琴、タイ・インドねしあはガムラン、ヨーロッパの古楽器はリコーダー・フルート・パイプオルガンなどがみられる。 バームクーヘンのチョコは壊れやすい。微振動は無感の振動・音などで川や大潮の時に起こる。古代は水の近くに人々は生活していた。大潮はお月さまの起潮力より起こる。土用の日は体調が優れないことがある。この微振動が無感のため、邪気・波動・音波・電磁波・オーラ・宇宙エネルギーなどいろいろな名称で言われている。土気の邪気は微振動の作用がもっとも大きい。風や湿度などの関係から複雑視されている。

『天に六気あり。降って五味を生ず。発われて五色となる。徴して五声となる。淫すれば六疾を生ず。』 

①六気・・・お天気 ②五味・・・食べ物 ③五声・・・音符・声


中国音階・陰陽五行[るんるん]


三宅太鼓は海の人・秩父太鼓は山の人田楽は田畑・土をうるをす唄・太鼓・踊り。この日本の伝統芸能はいったい何処から伝わってきたのでしょうか。なぜ人は唄い舞うのでしょうか。日本の伝統芸能や他国の伝統芸能を知らないゆえに気づかない。
音楽や舞・衣装だけが過去の時代を伝えてくれる。







[ひらめき]

2003年12月1日 英王立天文台の研究チームは、織姫星として知られる、こと座の恒星ベガが、地球に似た惑星を持っている可能性があるとの分析結果を発表。電波望遠鏡で観測した結果、海王星ほどの惑星が海王星と同様の軌道で回っていることを発見し、その内側に地球型惑星がある可能性を指摘している。二十八宿に新しい生命が誕生した。星に命が誕生したと同時に地球上でも織姫が生まれてくる。

【無断持出禁止】2010/3/19(金) 午後 9:21記 Pv.435

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黄帝蝦蟇経 きょうのお月さま [歴史]

黄帝蝦蟇経 きょうのお月さま

月生二日。蝦蟇生左肩。人気在足内踝後、足少陰。皆不可灸判傷之。使人陰共。男子陰痿、女子腸結不了。同神(一云、人気在股裏)。

3月18日 月齢2.3日 一白水星《九星・十二支・二十八宿》

人気在足内踝後とは、気が足内踝後に存在している状態で、気が高揚していると、または気が入ってきているなどの意味なのでしょうか。
足少陰とは足の少陰腎経でしょう。
使人陰共・・・足少陰共十二經脈のことなのでしょうか。わかりません。
十二經脈より
指人身手足三陰三陽十二經,包括手陽明、手少陽、手太陽、手太陰、手厥陰、手少陰、足陽明、足少陽、足太陽、足陰、足厥陰、足少陰共十二經脈。十二經脈運行于一身內外,遍佈各處,不論是四肢、軀幹、內臟無所不到。這十二經脈同人體內的臟腑均各有聯繋,是人身血氣外運、內外統一的主要迴圈通路,所以又名為十二正經,並以此構成經絡學說的主體。


男子陰痿、女子腸結不了・・・・禁鍼。理由はわかりません。お灸も禁なのかもしれません。欲ー六根ー耳。欲が旺盛なこと。より起こる。


『黄帝蝦蟇経』一巻。著者未詳。隋以前の成立[6]。日本刊本。杉本良・千田恭の文政六年(一八二三)序がある。同年に敬業楽群楼より刊行。中国中医研究院所蔵の当版を、中医古籍出版社より一九八四年一月に影印復刊。本書は多紀元胤編の『衛生彙編』の一書として収められたもの。

十八難
上(尺) 左 手の太陽と少陰ー火
中(尺) 左 足の厥陰と少陽ー木
下(尺) 左 足の少陰と太陽ー水

素問  地ー脈
上部  兩頬の動脈
中部   手の陽明
下部  足の少陰


http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/paper04/shiryoukan/me107.html

18183-005.jpg

【無断持出禁止】Pv.450
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ねりねりねりま 練馬の畑 [歴史]

ねりねりねりま 練馬の畑

今はたくあんは工場で生産されているが、家庭で作る場合には干し大根づくりをします。大根の首から少し下としっぽを切り落とし、翌三月仕上げの場合は十日、四月は十五日と時期により異なります。大根はサメ皮で水洗いし、右向きに大根の頭を置いて二すじの縄でしばり、頭を南に向けて干します。
練馬の本漬けたくあんは十一月初旬から十二月中旬頃までが収穫期のものを使います。三月頃出荷されるものは甘塩といい四斗の樽に塩、三から三㮇五升、三月以降の辛塩は塩、五から七升で漬けました。

武蔵野うどんはおご馳走 武蔵野農村では明治までは稗・ひえがたべられていた。大正にはいり粟・あわ飯が主流となった。粟にさつまいもやカブを入れたり、大麦を煮て大根・胡麻すり味噌で煮込んで胡麻・キュウリを入れた大根めしが戦前まで主食となった。うどん・そばはご馳走だった。 また三時のおやつには、小麦粉に砂糖を混ぜて鉄板などで焼いたおやつが食べられていた。 自然食品店などで、あわ餅が手に入るが、焼くと香ばしくてとても美味しいでした。

Холодная в Токио. Снег. Водка и матрешка Киев котлеты, любовь. Pierogi может съесть некоторых магазинах. Любимые песни, русская народная песня "Калинка темными глазами Соловей" Tetanjerudutaburu, канал Падрес Crois Мон Ами, Nezarandorubarudu шум на холмах Грузии, молитва. Свидания.
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清・ロシアン [歴史]


Катя Рябова - "Ромео и Джульетта"
『愛新覚羅浩展』より

ラストエンペラー「流転の王妃・愛新覚羅浩」のお話です。日本史を学んでいない私は、満州国ってなんだろうと不思議に思いました。また杉並ということで郷土家の先輩方が貴重な資料を残して下さり『愛新覚羅浩展』の記事を書かせていただいた。
満州国皇帝・愛新覚羅家   清の国
清は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。寧古塔貝勒(愛新覚羅氏) 第1代   景祖翼皇帝。 清朝皇帝(愛新覚羅氏)第1代 1616-1626 太祖武皇帝(ヌルハチ) 。1616年独立し全満州を統一。

学校では清国は過去当時代、中国のことを清と呼んだと思うように教えているし私も中国だと思っていた。
1894年日清戦争が勃発。清が破れ中国は分断の危機に陥った。3歳で皇帝に指名された醇親王家の愛新覚羅溥儀。辛亥革命により溥儀は退位し清は滅亡した。[清朝の復興]の思いから日本と親近になり、溥傑は、満州国留学生として日本の陸軍士官学校を卒業する。昭和12年4月3日嵯峨実勝候爵令嬢 浩が満州国皇帝の実弟と結婚式を上げられた。結婚後、千葉市稲毛海岸に新居を借りましたが満州の新京市に移り住み駐日大使館勤務しました。昭和20年(1945)の終戦を新京で迎えると溥傑は溥儀らとともにソ連軍に捕らえられハバロフスクの収容所に入れられました。辛く苦しい日々の中敗戦の満州にて浩さんたちは監獄生活も送り、昭和22年1月東京にたどり着くのでした。
辛く苦しい日々の生涯の励ましとなったのは、杉並区大宮町の嵯峨侯爵邸から式場に向かう自動車の中から見た、沿道を埋めるたくさんの人々のお見送りの風景だったそうです。
「わたしは、そのとき、沿道に並んで、盛んに日の丸の旗を振ってくださった小学生の方々や、町内の人々を見た。その旗の波、波、波。私は忘れなかった、その沿道の風景を。」 

愛新覚羅溥儀は1950年、満州国の皇帝として国家戦犯として、中国共産党によって撫順刑務所へ送られました。しかし満州国はもともと中世に北方民族系国家が興亡した地域で【元】モンゴル人が政権の時代に満州と中国が統合されました。明の時代には中国政権の影響を受けましたが明の領土ではありませんでした。のち清の時代となるのです。満州国が中国の領土となったのは戦後昭和24年でした。

http://www.tokyo47d657f674905_1.jpg-kurenaidan.com/aishinkakura.htm

weather10.gif《2》抑留の名残 各所に
http://www.yomiuri.co.jp/local/akita/feature/CO018474/20150821-OYTAT50044.html?from=yartcl_blist

weather10.gifシベリアのクーリーの話では、最初からシベリアに何人工員・クーリーを充当するか決められていた。シベリアはもともと少数民族の地域で、西洋ロシア人は出稼ぎに来ていた。南サハリンも日本に帰ると思った船が、宗谷岬沖でUターンして、 Находка、ウラジオストークへ向かっていった。

weather10.gif老人ホームなどでかならず戦時中のお
話がでてきます。中にはシベリア・満州・大連に移住されていた方のお話もよく聞きます。ロシア民謡、コーリャン、八路兵、バイカル湖、満州事変、渡辺はま子、李香蘭、など思い出に残るお話などたくさん出てきます。戦争を知らない私たちはこの複雑な思いと時代、歴史を知らないまま、当時の歌だけが歴史を知らない人々により歌われています。何故、民謡歌手や演歌歌手の歌がいつまでもカラオケなどで皆に愛されているのでしょう。満鉄職員は大きい家があったが、ずるい関東軍は私たち満鉄や開拓民置き去りにして逃げた(石原 莞爾)
shot0001.jpgshot0002.jpg
~樺太引き揚げ 三船遭難の悲劇~
http://rumoifan.net/shun/1008/100813sansen-rumoi.htm





民族衣装サラファンは永遠に
http://jp.rbth.com/arts/2014/05/07/48199.html

p03_1203_JP_matryoshka-468.jpgロシアチョコhttp://www.choco-matsuya.com/zabaot.html
http://jp.rbth.com/articles/2012/04/02/14246
ロシアのイースター クリーチ
http://jp.rbth.com/arts/2013/05/05/42817

ロシアのシャルロートカ
http://www.chaika-shop.com/?mode=f8
http://www.russia-ex.com/blog/item/9086.html
Radio Ukraine International
http://tunein.com/radio/Radio-Ukraine-International-s1794/

日本でロシアを味わおう・37
http://www.tokyorus.ac.jp/restaurant/rest37/rest37.html
日本の子供たちはイースターチョコを探している。日本人のカレー好きは給食。日本にはイースターの習慣がない。ru.pngボルーシンはS&Bだけ。日本はウクライナ民謡知らない。

домашний свекольник

Pv.914


http://www.office-zirka.com/index.htm

戦場体験者 沈黙の記録 保阪 正康著 ちくわ書房

日本の敗戦から70年。戦争体験者が減るなかで、実際の戦場を体験した人々が、戦後社会をどう生き、悲惨な体験をどう伝えようとしたのか、その実像に迫る。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480818423/

 

 北方四島のインフラ整備、観光目的の開発、水産加工物の販売促進などの日露両国の共同経済効果を視野ニチロ、排他的経済水域のかに漁、流し網漁などの漁業圏の規制緩和などさけマス(マルハニチロ)
Омуль バイカル湖

http://trip-nomad.com/food/omul/



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甲斐の黒駒 [歴史]

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甲斐の黒駒
平安時代初期に聖徳太子が天を翔ける馬に騎して富士山頂を飛んだという伝説がある。
「私はこの馬に乗って雲を踏み霧を凌いで、直ちに『附神岳』の上に至り、転じて信濃国に至り、電光のように飛び、越の国を経て、今帰って来た。麻呂が疲労も忘れて随ったのは、まことに忠節であった。」
この馬は甲斐の黒駒で、4世紀後半に百済から馬の飼育と乗馬が伝えられ、御牧(みまき、天皇の牧場)勅旨牧が東国4国に置かれ、毎年朝廷に馬を貢進しました。武蔵国に4ヶ所、馬産の牧場があった。、霊亀2年(716年)に甲斐を含む東国の高麗人を武蔵国へ移し高麗郡が置かれた。『続日本紀』巨麻郡など。
竹取物語の不二の薬伝説も、上宮聖徳太子伝補闕記の【附神・輔時】の意味も不二であり、不二とは他に無いもので、陰陽でとかれている生死も、昼と夜・生と死は別々の物事ではなく時間ほ隔てて一直線上の物事で考えればひとつである、というのが不二である。不二家。  
鑑真和上がむかし聞いた話だが、南岳の慧思が亡くなってから倭国の王子に生まれ変わった。
平安初期の伝承に、大唐の南岳思禅師の後身なる聖徳太子は、不世の徳を以て、此の国に転生した。 というのも不二という解釈ができる。ここで言われる倭国とは日本です。

▼高橋連虫麻呂 万葉集巻3-319▼養老 2年(頃) 718年 ▼富士山大爆発の記録▼
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と 此方此方(こち)の 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 翔びも上らず 燃ゆる火を 雪もて滅(け)ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも います神かも 石花海(せのうみ)と 名付けてあるも その山の 堤(つつ)める海ぞ 不盡川と 人の渡るも その山の 水の溢(たぎ)ちぞ 日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも





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伽耶琴 [歴史]



伽耶琴・カヤグム・というお琴は十二弦。伽耶国は3世紀から6世紀中頃朝鮮半島南部に存在した伽耶国。
のちに新羅に滅ぼされ統一される。伽耶琴は中国のお琴をかたどり作られた。奈良時代に新羅から伝わり、正倉院に保存されている。
何でも中国・朝鮮・韓国から文化が伝わってきたと一言で言ってしまえば簡単だが。
練馬区史の立野町の地名の由来には、後撰集藤原忠房の歌「秋霧の立野の駒を引く時は 心にのりて君ぞ恋しき」と詠(うた)われた武蔵国立野の馬牧にちなむ地名という(ほかに埼玉県や神奈川県の説も)。と立野の駒がでてくる。馬を駒と呼び、駒=高麗とよまれる。世田谷にも駒のつく地名がある。古代武蔵野で馬の放牧が行われていた。伽耶は萱・に関係しているという説もあり、武蔵国・笠原郷は加夜と書かれていた。武蔵名所図会にはこまえ郷は現在の狛江市・調布深大寺一帯より広い地域をさしている。武蔵野・三鷹・調布・世田谷・杉並そして練馬・川崎市を含む地域だった。昔いのかしら池を狛江の池、七井の池といわれ 「狛江橋」はその名残だという。

新羅郡・新座郡の郡衙・【わからない郡衙】
郡衙からの出土遺物は大型建築跡や墨書土器、祭祀遺物、木簡など。天平宝字2年(758年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、新羅郡を置いたと記録されている。「続日本紀」ねりま区史。
新編武蔵風土記稿に午傍山が新羅王居跡と記されている。現在の和光市新倉の午房山(御王山)遺跡で 「午傍山の上わずかの平地あり、昔、新羅の王子、京より下向の頃ここに居住せし」と午傍山と記されている。午傍山=午房山・ゴボウと読む。この午房という地名は同じ和光市に練馬区旭町との境にもある。
白子川流域でむかしこの地域を志木と呼んでいた。『和名抄』に「新坐郡志木郷 」はこの付近をさし、現在の埼玉県志木市の地名の由来になっている。新羅郡のシラギは後に新座郡・シラギと呼ばれ志楽・志楽木・志羅木(しらぎ)、志木(しき)、新倉(にいくら)・にいざと呼ばれていた。新座郡は和名抄に爾此久良と註しニイクラと呼ばれた。むかしは宇家良・ウケラ・オケラが多くうけら野とも呼ばれた。
尾張藩の鷹場は新座にあったとされている。清戸道を調べると、江戸川橋から武蔵国多摩郡清戸まで通じる古道で、鷹狩はおろか農村から町への交通路になっていた。清戸へ向かう途中に練馬小榑村と記されている村も新座郡で、現在の大泉学園町、西大泉、南大泉一帯を指す。保谷村・現西東京の保谷市も新座郡でした。白子川流域は縄文時代・弥生時代の遺跡も多く、江戸時代白子宿としても栄えた。
しかし平安時代の遺跡は和光市の花ノ木遺跡でし出土しており、ここが郡衙としても有力視されている。

万葉集 東歌 14-3379

わが背子を 何どかも言はむ 
     武蔵野の 
うけらが花の 時なきものを

このうけらを和光市新倉で詠まれたとする方もおられる。

享和二年(1802)、橘千蔭自撰集『うけらが花』の中には玉川の返し歌があった。

玉川や 千村(ちむら)五百村(いほむら) 手づくりを さらしそふると 見ゆる月かな   (うけらが花)

玉川とは多摩川。この時代にも狛江の地・【付近の村々を五百重・いほへ】がいかに有名であったかがうかがえる。



国紀・天皇紀は620年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した歴史書である。この書が出現するならば、新羅・百済と日本との関係はより鮮明となる




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多磨川に「太鼓全盲持ちだし禁止」 [歴史]

多磨川に さらす手づくり さらさらに と万葉東歌で詠まれた多摩川。古来よりひとびとが住み、生活を営み、また官道ができ、大和の国よりひとびとが行き来したこの地。この万葉東歌を調べているうちに、万葉紀行を書かれているいとりの作家・はるかわるかさんの本と出合った。
北紀行・南航路と題して、現代文芸として失われてしまった古歌を、筆者はあえて詠ませていただくと巻末に書かれていた。
川崎市に足を運んだ筆者が、ここから自分が見ている地も太古のむかしは海だった。島影はおろか見えない海をわたしは見ているのですと。
むかしは武蔵国橘樹郡に属し世田谷や狛江と同様に古墳群が多い所でひとつの古墳を訪れたのだ。しかし見渡しても古墳のような茂みもない。地元の古老に場所を聞いてもわからない。地図をたよりに急勾配の道を登ると逆らうようにして住宅街が並んでいる。登りつめると児童公園にあるような小さい丘が建っていた。ほっとした筆者はとりあえず頂上に登ってみた。東の彼方には川崎のビル群と工場の煙がかすかにかすんでいた。

『横さらふ 五百重波にて近つ国、遠つ国とて あれの会ふあれ』  るか


以前、枕詞に 『夏麻引く』 と詠われた地 上総の国を尋ねた筆者が 夏麻引くとは夏に茂る麻から麻糸を紡ぐことから (う) あるいは (い) の音にかかると引用されていると説明していた。
宇奈比と推測される世田谷・宇奈根地方も多摩川沿いです。

 『夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし 』
武蔵国多摩郡 作者未詳 万葉集巻14


ここで詠われる宇奈比とは宇奈根のことなのですが、宇奈比をさして飛ぶ鳥とはいったいどの方角から詠まれた歌なのでしょうかと筆者は疑問をなげかけている。
ただ住宅街とビル・工場だけの風景の中から 『横さらふ 五百重波』 と連想できるのも、埋立地ばかりになった東京湾沿岸が以前はさざなみが漂う干潟であったからだろう。
それだけでなく、どれだけ筆者が歌が恋しく寄れば寄るほど、離れにくい思いが歌を詠まれた土地に執着しているからこそ、『五百重波』 と詠めるも、古歌のもつ音と美しい節から生まれてくるのだろう。


玉川や 千村(ちむら)五百村(いほむら) 手づくりを さらしそふると 見ゆる月かな (うけらが花)
寒秋              
1947年(昭和22年)      
1949年(昭和24年)     
1951年(昭和26年)      
1953年(昭和28年)      
1957年(昭和32年)      
1963年(昭和38年)      
1968年(昭和43年)      
1971年(昭和46年)      
1973年(昭和48年)      
1974年(昭和49年)     
1976年(昭和51年)     
1981年(昭和56年)         
1983年(昭和58年)      
1986年(昭和61年)        
1988年(昭和63年)       
2002年(平成14年)      
【無断使用持ち出し禁止 太鼓///全盲】


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竹取物語3 [歴史]

__tn_5301343.jpg阿倍内親王
聖武天皇の皇太子時代に結婚し、718年(養老2年)阿倍内親王を出産。
聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日(738年2月6日)に娘・阿部内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。のち天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。

孝謙女帝・・・大仏開眼や東大寺における新春万燈会などの華やかな行事にの傍ら、藤原仲麻呂の勢力が急速に高まるにつれて、奈良麻呂が仲麻呂を失脚させようと陰謀を企てた。しかしこの情報が漏れて未遂に終わり、奈良麻呂らが捕らえられた。

月の女神は、皇位を守る。男系が育たなかった光明子に宿り、化身となりご加護された。718年(養老2年)阿倍内親王を出産。のち孝謙女帝となり、華やかな時代とともに、東宮に怪しげな動きがあらはれるのである。
そしてまた同じ時代に、皇位に再び女系天皇説となり脅かされている。かぐや姫が月の女神となりたまいき、再び化身となり、男系をはぐくまれた。それが守護月天のお役目なのです。そして再び未来、守衛宮城するのです。

日月の道は貞しくして明らかなり 易経

皇室の方々のご訪問され、ご発言なさるといつも反対派がクレームをつけてくる事も反対派のパフォーマンスです。これは大学や教員も同様で、障害者や福祉施設の皇室の方々のご訪問を知っていて皇室批判をして生徒にまで【君が代日の丸反対、日本の伝統文化反対】と言わせるのです。ですから余計に批判して来られるのをおいやがらせするのです。皇族の方々とお会いすることで我々はご縁にふれてお得を感じるのです。生徒も同様です。だから教員たちは毛嫌いしてお得を軽侮するのです。
皇位継承問題も現在は女性皇族の方が多く、宮家も断絶の危機にあり、それとあいまって平和、民主主義などの天皇制廃止論者などが反対反対と口々に声を募ってきているのも、なんともむなしいかぎりです。

カミガミの子孫ならわかるでしょーう。だから音楽や鍼灸をやっているのです。

月天子の眷属はお姫様を助けるのです。(観世音菩薩の末流


【無断持出禁止】Pv.731
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竹取物語 Part 2 [歴史]

5301343.jpg

古事記には、第9代開化天皇の孫、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)とその娘、迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」の名がしるされている。迦具とは火之迦具土神、火の御魂の神からきています。
かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話は何を意味するのでしょうか。
竹の神話には木花之佐久夜姫(コノハナノサクヤヒメ)のお産の時へその緒を切った竹の刀が竹林となった。コノハナノサクヤヒメにはホデリ(海彦)と末っ子のホオリ(山彦)がいました。海彦と山彦はお互いに道具を交換して仕事に出かけました。海の仕事に慣れていないホオリ(山彦)は海彦から借りた大事な釣り針をなくしてしまい途方にくれていました。それを見ていたおじいさんが竹櫛を大地に投げ付けました。するとたちまち竹林となり、すぐさま竹篭を編みました。山彦はそれに乗って海に出て釣り針を探すことが出来ました。竹の成長力、生命力が神秘的な力をもっていると信じられていました。
竹中生誕説話は神秘的、不思議な出産、出生である可能性は高い。

光明子の巻
①玉依姫(たまよりひめ)海の女神の伝承の霊鹿と鳳来寺山で薬師を刻んでいた父の利修仙人の間に生まれた光明子。利修仙人が三河の鳳来寺山で修行していたとき女児を都の貴人の家の前に捨てた伝承があります。
『興福寺流記』の伝承には『光明皇后、和泉国の織女、田を植ゑるに光あり或いは夢に見る、或いは聖武右を見る、と云々。嫌ひ出るの後、田植の諸人一人づつ上に至るに、光明女上り畢りぬれば田に光なし、と云々。仍て之を語り、奈良の都に迎へ取りて立后す。而して見聞恵稽首君二人の仏師に問ぴ阿弥陀仏三尊を造立し奉り、和泉の木津に船に入れ之を運ぷ。和泉国国分寺を建立し之を安置す。是光明皇后の御願なり。而して件の国分寺には免田の照田・光田二町を寄進す、と云々。是即ち皇后の昔植ゑ給ふ田なり。』

★①姿見の池 国分寺恋ヶ窪★
朽ち果てぬ 名のみ残れる恋ヶ窪 今はた訪ふも 知記りならずや  聖護院道興准后後知足院関白房

幾年と 語りに伝たふ 姿見の 心も清む 鏡とならむ   ももぞの

②開化天皇の時代。迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)の名が後の時代、別のお姫様になって登場すると竹取物語で物語っている。これは迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が次の時代に生まれ変わってくること。人は生まれ変わるということが信じられ、過去から【同じ時代】が再び繰り返されたとき迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が生まれてくることを物語っている。このことは竹取物語の結末の『不死の薬』すなわち長寿・いのち・未来・永遠が説かれている。お蚕さまも交尾をしたら離れない。いのち・未来・永遠と徳を説いているのです。

 阿倍内親王

聖武天皇の皇太子時代に結婚し、718年(養老2年)阿倍内親王を出産。
聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日(738年2月6日)に娘・阿部内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。のち天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。

『続日本紀』巻八養老二年(七一八)十一月壬寅辛夘朔十二
十一『続日本紀』巻八養老二年(七一八)十一月壬寅辛夘朔十二
十一月壬寅。彗星守月

 【無断持出禁止】2008/2/11


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竹取 日本史 [歴史]

 

 

弥生式時代
226垂仁15)年この年、星降ると、後の記録にある。(吾妻鏡52)
239  倭の女王卑弥呼、帯方郡に遣使

古墳時代
404 倭軍、帯方郡で高句羅…古代朝鮮三国の一つに敗北
416(允恭 5)年
  7月   近畿地方中部で地震(ナヰフル)がある。(日本書紀13)
443倭王済、宗中国、五代の分裂を統一した王朝に朝貢
500頃(清寧 3頃)年
  3~4月  富士山噴火し、黒煙が天に昇る。熱灰が雨のように降る。三農は営を絶ち、五穀は実らず。  天皇、使を立てて神宝を献じ捧ぐという。 (走湯山縁起 2)
527  磐井の反乱
538  仏教伝来
553(欽明14)年
    この年、阿蘇山噴火? (日本火山総覧)
568(欽明28)年
    この年、郡国大水飢。 (日本書紀19)

飛鳥時代
593 聖徳太子摂政となる
599(推古 7)年
    この年、大和で地震があり、地震の神を祭る。 (日本書紀22)
601 (推古 9)年  聖徳太子、班鳩宮をつくる
601(推古 9)年
  5月    天皇、耳梨行宮へ居を遷す。大雨で河水あふれ、宮庭を浸す。(日本書紀22)

602  百済僧観勒、暦法などを伝える
603  小墾田宮に移る 冠位十二階制定 太秦に広隆寺建立 
604  役人に初めて冠位を与える 十七条憲法制定 
607  敬神の詔 法隆寺建立 小野妹子らを遣隋使として派遣       
608  遣隋使小野妹子帰国
609  肥後国に百済人80余人漂着
610  高句麗僧、紙・墨・絵具の製法を伝える
613  難波より大和に至る大道開通
614  犬上御田鍬を隋に派遣(翌年帰国)
616  掖玖人30人(南方の屋久島島民)来渡
621  新羅来貢し、初めて上表する
622  聖徳太子死去
623  留学生恵日ら帰国、唐との国交を建言
624  蘇我馬子、葛城県を要求、天皇許さず

626  蘇我馬子死し、その子蝦夷、大臣となる 長雨による大飢饉

628(推古36)年
  3月 2日  日蝕あり。 (日本書紀22)
    この年、地震により道後温泉がふさがり、3年後にまた出る。(伊予温古録)

629  田部(耕地民)連を掖玖(やく)に派遣
630   第一回遣唐使犬上御田鍬を派遣
631  百済王子豊璋、人質として来日
632  犬上御田鍬、唐使高表仁を伴い帰国

634(舒明 6)年
  8月    長星南方に現れる。時の人これを彗星という。 (日本書紀23)

635(舒明 7)年
  1月    彗星東に見える。 (日本書紀23)

636       大旱魃で飢饉広がる

639(舒明11)年
  1月    長星西北に現れる。時旻師曰く彗星也。 (日本書紀23)

640  高向玄理・南淵請安ら帰国

642  蝦夷の子蘇我入鹿執政となる

643  入鹿、山背大兄王を襲い、王一族自害

645 大化 1  中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を殺す 大化の改新 戸籍作成 男女良賎の法制定 年号制定

646 大化 2  大化改新の詔を発布 東国の国司を任命 薄葬令
 =墳墓葬送の制
647 〃 3  七色十三階の冠位を制定 渟足柵(ぬたりのき)を設
 ける
648 〃 4  磐船柵(いわふねのき)を設ける
649 〃 5  冠位19階を制定し、八省百官をおく
650 白雉 1  長門国から献上された白雉により改元
652 〃 3  戸籍作成、里・五保の制 最初の班田収受を施行
653 〃 4  中大兄、天皇と不和になり飛鳥に移る
 遣唐使船、薩摩之曲・竹嶋之間(薩摩竹島)で沈没
654 〃 5  玄理らを唐に派遣
655 斉明 1  蝦夷・隼人が多数服属
 隼人衆上京

658 〃 4  阿部比羅夫、蝦夷を打つ 有間皇子謀反で処刑

660 〃 6  百済、唐・新羅に敗れ、百済の遺臣が救いを求める
661 〃 7  斉明天皇・中大兄、百済再興のため出発
662 天智 1  阿曇比羅夫、百済再興に向かう

663 〃 2  白村江の戦い

664 〃 3  対馬・壱岐・筑紫などに防人を置き筑紫に水城 冠位二十六階制定

664(天智 3)年
  3月    京北に星隕あり。 (日本書紀27)

665 〃 4  唐使来日、入京 百済人400人余を近江国神前郡におく 長門・筑紫に山城を築く
666 〃 5  百済人2000人を東国に移す
667 〃 6  近江大津宮に遷都 大和・讃岐・対馬に築城
668 〃 7  近江令を制定
669 〃 8  鎌足危篤に際し、大織冠と藤原姓を与える 百済人
 700余人を近江 国蒲生郡におく
670 〃 9  初の全国的な戸籍をつくる 美濃に不破関を設置

671 天智10  大友皇子、太政大臣になる 天智天皇没

672 弘文 1  壬申の乱 

675 〃 3  諸氏の部曲を廃止し、王臣・諸寺に与えた山林など
 を没収

676(天武 4)年
 11月    地震あり。

678(天武 6)年
  6月14日 地震あり。

679 〃 7  逢坂山に関を設置
 多禰島(種子島)に使いを派遣
679(天武 7)年
 10月    筑紫で大地震。 幅2丈、長3000余丈の亀裂生じ、家屋多数倒壊。 (日本書紀29)

 680(天武 8)年
  6月 1日  桃子ほどの氷零(霰)が降る。 (日本書紀29)
 10月11日 地震。14日にも地震。(日本書紀29)
 11月 1日  日蝕あり。 (日本書紀29)

681 〃 9  律令の編纂を開始
 多禰島(種子島)使人ら多禰国図を献ず
681(天武 9)年
  6月    灰降る。 (日本書紀29)
  9月    地震あり。 

682 〃 10  王臣の食封を没収す
 大隈隼人・阿多隼人上京方物を献ず 多禰が島・掖玖島など服属
682(天武10)年
  3月    地震あり。
  6月    地震あり。
  9月    彗星現れる。 (日本書紀29)
 11月    地震あり。

683 〃 11  大津皇子、国政に参画
683(天武11)年
  1月    地震あり。
  3月    地震あり。
  7月    地震あり。
  8月12日 地震あり。17日にも地震。

684 〃 12  八色の姓を制定
684(天武13)年
  7月    西北に彗星現れる。長さ丈余。 (日本書紀29)
 10月    未だかつてないという大地震。山崩れで洪水。諸国の郡官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社の多く破壊される。
        津波で土佐の田苑50余万が海没。伊予の温泉が没し出ず。人と六蓄に死傷多数。

 11月    戊辰に七星、東北に流れる。 庚午日没時、東方に星隕。天文悉乱し星隕雨の如し。

685(天武14)年
  3月    信濃に降灰。 草木が皆枯れる。(日本書紀29)

686 朱鳥 1  大津皇子の変=謀反の嫌疑で捕らえられ自害

686(朱鳥 1)年
  1月    地震あり。
  3月 1日  信濃に降灰。
 12月 1日 西で地震あり。

687 持統 1  高句麗の渡来人を常陸国に新羅の渡来人を下毛野国におく
689 〃 3  新羅の渡来人を下毛野国におく 飛鳥浄御原令施行
 筑紫大宰栗田真人、隼人174人と布・牛皮・鹿皮を献ず
 690 〃 4  戸令により戸籍をつくらせる
 691 〃 5  奴婢、陵戸の制を定める

694 持統 8  藤原京に遷都
 
 698 〃 2  公私奴婢の逃亡多く、笞刑を定める

700 〃 4  道昭(行基の師)没し、火葬する(火葬の初め)

701(大宝 1)年
  3月26日 丹波(当時は丹波と丹後は同じ)で地震。3日間続く。
        若狭湾凡海郷島が沈没 し、頂上二つの小島のみになる。現在の冠島・履島。5月12日とも言う。

702 〃 2  初めて度量を諸国に分かつ 律令を分かつ薩摩国・多禰国を置く     

703(大宝 3)年
  7月    近江で噴火。 使を遣わして雨を名山大川に祈る。(続日本紀 3)

704 慶雲 1  疾病・飢饉の流行

706 〃 3  田租の法を改め、1町22束を15束とする
.
708 和銅 1  武蔵国、和銅を献上 銀銭・銅銭を鋳造

709 〃 2  巨勢麻呂・佐伯石湯、蝦夷を平定
 薩摩隼人郡司以下188人朝貢


奈良時代
710 和銅 3  奈良平城京に遷都

 薩摩国は舎人を、日向国は采女を貢ぐことを命ず

711 〃 4  はじめて諸国に駅を置く 私鋳銭を禁ず
712 〃 5  太安麻呂「古事記」を撰進

713 〃 6  丹後国・美作国を設ける
 日向国の曽於・大隈・姶羅を割いて大隈国を設ける

714 〃 7  奄美・石垣島・久米島の島人来る

715 霊亀 1  府浪人に逃亡地で調庸を課す
715(霊亀 1)年
  5月    三河・遠江で大地震。 正倉47棟が倒壊。
        麁玉河(天竜川)が土砂でふさがり、氾濫。民家170余戸が水没。(続日本紀 6)
  7月    地震あり。天皇甕原離宮に行幸す。 (続日本紀 6)

716 〃 2  吉備真備・僧玄昉ら入唐
716(霊亀 2)年
  1月    地震あり。

717 養老 1  百姓の違法出家を禁じ、行基の活動を禁圧

718 〃 2  能登・安房・石城・石背国設置
718(養老 2)年
 11月    彗星、月を守る。 (続日本紀 8)

『続日本紀』巻八養老二年(七一八)八月甲戌壬戌朔十三
秋八月甲戌。齋宮寮公文。始用印焉。

『続日本紀』巻八養老二年(七一八)八月乙亥十四
乙亥。出羽并渡嶋蝦夷八十七人來。貢馬千疋。則授位祿

『続日本紀』巻八養老二年(七一八)十月庚辰二十
庚辰。大宰府言。遣唐使從四位下多治比眞人縣守來歸。

『続日本紀』巻八養老二年(七一八)十一月壬寅辛夘朔十二
十一月壬寅。彗星守月

『続日本紀』巻八養老二年(七一八)十一月癸丑廿三
癸丑。始差畿内兵士。守衛宮城

719 〃 3  按察使を諸国に置く (畿内・西海道を除く)
719(養老 3)年
  3月    地震あり。

720 〃 4  舎人親王ら「日本書記」を撰進
 隼人反乱 大伴旅人(征夷大将軍)を派遣

720(養老 4)年
  2月    地震あり。

721(養老 5)年
  1月    地震あり。
  2月    地震あり。
 12月    地震あり。

722 〃 6  良田百万石の開墾を計画

723 〃 7  三世一身の法制定
 大隈・薩摩の隼人が朝貢

724 神亀 1  陸奥国に多賀城を築く
724(神亀 1)年
        行基、山崎橋を作り法会が行われる。俄に洪水となり、橋は流失し死者多数。(古事談 3)

727 〃 4  渤海国使、出羽国に初めて来着

727(神亀 4)年
 10月    上総で山崩れがあり、70人が圧死。賑恤を加える。

729 天平 1  長屋王(天武皇孫)、謀反で糾問 自殺

730 〃 2  皇后宮職に施薬院をおく 諸国に防人を置く
 大隈・薩摩両国で班田制導入を断念、墾田とする
731 〃 3  宇合・藤原麻呂・葛城王ら6人を参議とする
732 〃 4  新羅使の来貢を3年に一度とする
733 〃 5  出羽柵を秋田に移す

734(天平 6年)
  4月    大地震。 百姓の舎倒壊多数。山崩れで川がせき止められ決壊多数。
       使を諸国に派遣し、破壊された神社を調査する。 (続日本紀11)
735 〃 7  吉備真美・玄昉ら唐より帰り、諸物を献上

737  天平 9  藤原不比等の四子死去

738 天平 10  橘諸兄、右大臣となる

738(天平10)年
  9月    地震あり。

739 〃 11  大宰府管内以外の軍団廃止

740 (天平12)年  藤原広嗣の乱
 藤原広嗣の乱に隼人動員

741(天平13)年  国分寺建立の詔
741(天平13)年
  6月    洛中に飯が降ると水鏡にいう。 翌年の記録と誤認か。 (吾妻鏡52)(康富記)

742 〃 14  近江紫香楽に離宮を造営
742(天平14)年
  1月    陸奥黒川郡以北11郡に赤雪降る。平地で2寸。 (続日本紀14)
  3月    地震あり。(続日本紀14)
  6月    京中往々に飯が降る。 (続日本紀14)
 10月23日 大隅で大地震あり。28日まで余震続く。 
 11月    陸奥に丹雪が降る。 (吾妻鏡52)
 12月16日 地震あり。(続日本紀14)
    この年、霧島御鉢で噴火。 (日本火山総覧)
743 〃 15  墾田永代私有令制定…墾田の永久使用を認める

744 天平 16  難波京に遷都

744(天平16)年
  5月    肥後で地震。 (続日本紀15)

745 天平 17  平城京に都を復す 玄昉、筑紫に左遷

745(天平17)年
  4月27日 美濃で大地震。 三日揺れが続く。櫓館、正倉、仏寺、堂塔、百姓の廬舎崩壊する。(続日本紀16)
  5月 2日 地震あり。 都の諸寺に17日間経を転読させる。また8日にも地震。
大安、薬師、元興、興福の4寺で大集経を37日転読。
10日にも地震あり、平城宮で大般若経を転読。地震で各地に亀裂が生じ、水が湧き出る。

746 〃 18  諸寺が墾田・園地を競い買うことを禁止
747 〃 19  東大寺大仏鋳造開始

749 勝宝 1 仲麻呂、大納言兼紫微中台の長官となる 大仏鋳
 造完成

750(天平勝宝 2)年
  5月24日 中山の寺振動、塔と歩廊が焼失する。
752 〃 4  東大寺大仏開眼供養

753(天平勝宝 5)年
 12月    摂津に津波至り被害大。田租の免除を行う。
757 宝字 1  養老律令施行 橘奈良麻呂の変
758 〃 2  諸道に問民苦使を遣わす
759 〃 3  諸国に常平倉を置く
760 〃 4  恵美押勝(仲麻呂)、大師(太政大臣)となる
762 〃 6  孝謙上皇、押勝の擁する淳仁天皇を非難

762(天平宝字 6)年
  5月 9日 美濃、飛騨、信濃で地震。家ごとに二斛を支給する。(続日本紀24)
764 〃 8  恵美押勝の乱

764(天平宝字 8)年
  9月    反乱者恵美押勝の臥屋の上に星が落ちる。 (続日本紀25)
 12月    これより以前に大隅薩摩の境で奔電があり、信爾村の海に沙石が降って3つの島となる。
        民家62区が埋没し80余人が死亡。(類聚国史11)(続日本紀25)
765 神護 1  道鏡太政大臣となる 寺院以外の新墾田を禁ず
766 〃 2  道鏡、法王の位を授けられる

766(天平神護 2)年
  6月 5日 これより前大隅神造新島で地震。 民多く流亡する。桜島噴火。 (続日本紀27)
767 景雲 1  陸奥の伊治城完成
768 〃 2  筑前の怡土城完成
769 〃 3  和気清麻呂、道鏡を大隈に配置流
770 宝亀 1  道鏡を下野(栃木)薬師寺に追放

771 〃 2  武蔵国を東山道から東海道に編入

771(宝亀 2)年
  5月23日 豊後速見郡敵見で山崩れ。川を堰止め、十余日後に決壊。百姓47人が漂没し家43区が埋没。
        調庸の免除と賑救の詔が出される。
 11月    西南に星隕。その音、雷の如し。 (続日本紀31)
772 〃 3  再び墾田の私有を許す

772(宝亀 3)年
  6月    京師に隕石。大きさ柚子の如し。数日で止まる? 
 12月    彗星南方に現れる。 僧100人斎を楊梅宮に設ける。星隕雨の如し。

773(宝亀 4)年
  2月    地動く。(日本書紀22)
  5月    南北に各一つずつ星隕あり。 (続日本紀32)

774 〃 5  諸国、飢饉 陸奥国、蝦夷反乱
776 〃 7  出羽国志波村の蝦夷反乱

776(宝亀 7)年
  7月19日 西大寺の塔揺れる。 (続日本紀34)
  9月20日?毎夜瓦石や塊が内竪曹司や京中の家屋上に墜ちる。 (続日本紀34)(吾妻鏡52)

777 〃 8  陸奥・出羽の軍、出羽の蝦夷に敗れる

777(宝亀 8)年
  2月 晦日 日蝕あり。 (続日本紀34)
  7月14日 但馬国分寺の塔揺れる。 (続日本紀34)

780 〃 11  陸奥国上治郡司、伊治呰麻呂が反乱
781 天応 1  中宮職を設置 藤原小黒麻呂、蝦夷を平定

 781(天応 1)年
  3月    地震あり。
  5月    地震あり。
  6月    地震あり。
  7月 6日 駿河より富士山噴火で降灰があり、木葉彫萎するという。(続日本紀36)
 11月    地震あり。

782 延暦 1  氷上川継、謀反の嫌疑で伊豆に配流

782(延暦 1)年
  1月    地震あり。
  2月    地震あり。
  6月    地震あり。

784 延暦 3  山背(山城)長岡京に遷都

785 〃 4  「万葉集」編者大伴家持死 (716→)

788 延暦  7  最澄、比叡山延暦寺を建立

788(延暦 7)年
  3月 4日 大隅曾乃峯で夜10時頃噴火。 2時間ほどで収まり、石や灰が麓56里に降る。

789 〃 8  大墓阿弓流為、蝦夷征討軍を大破
789(延暦 8)年
  1月 1日 日蝕あり。 

791 〃 10  豊後・日向・大隈国で飢饉
792 〃 11  軍団を廃し、健児を置 く(陸奥・出羽等を除く)

794 〃 13  京都平安京に遷都

795 〃 14  公出挙利率を3割に減ずる

平安時代
797 〃 16  坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官
797(延暦16)年
  8月14日 京畿に地震暴風あり。
798 〃 17  渤海に使を遣わす

799 〃 18  渤海使の来日を6年に一度とする
799(延暦18)年
  8月11日 常陸国鹿島・那加・久慈・多珂の4郡に津波が15回押し寄せる。
        海面は20余町引いた後、津波が内陸1町まで達するという。(日本被害地震総覧)

800 〃 19 . 大隈・薩摩両国百姓の墾田を収めて口分田を授け
 る 
800(延暦19)年
  3月14日 富士山噴火。煙で暗瞑するという。夜、火光が天を照らし、雷の如き音がするという。
        灰が雨のように降り、河水皆紅色になると言う。4月18日まで続く。(日本紀略)
  6月 1日 日蝕あり。

801 延暦 20  坂上田村麻呂、蝦夷地を平定
 大宰府に隼人の朝貢停止を命じる

802 〃 21  坂上田村麻呂、胆沢城を築く 
802(延暦21)年
  1月 1日 駿河・相模より、富士山噴火で砂礫が降ってくるので占いを求むと言上あり、卜すると、疫になるという。
        勅して両国に鎮謝を加える。(日本略記)
  5月    相模足柄路、富士の焼石によって塞がれたので、これを廃し、筥荷路(箱根路)を開く。(日本紀略)
803 〃 22  坂上田村麻呂、志波城を築く
804 〃 23  坂上田村麻呂、征夷大将軍に再任される    
805 〃 24  最済帰国して天台宗を開く
805(延暦24)年
  1月    未刻、大星隕。 (日本後紀12)

806 大同 1  空海帰国して真言宗を伝える
 旱魃疾病につき日向・大隈・薩摩は田租1年免 
806(大同 1)年
  8月    この月、霖雨やまず、諸国で洪水。 (日本後記14)
807 〃 2  藤原宋茂の謀反発覚し、伊予親王ら自害    
807(大同 2)年
  5月25日 地震あり。(日本逸史15)

808 〃 3  畿内の班田を6年に一度に復す

809  大同 4  平城上皇、平城旧京へ移る

810 弘仁 1  初めて蔵人所を置く 藤原薬子の乱
810(弘仁 1)年
  6月26日 夜地震あり。

811 〃 2  文室綿麻呂を征夷大将軍に任命
811(弘仁 2)年
 12月16日 地震あり。

812 〃 3  国司が公廨田以外に水陸田を営むことを禁止
812(弘仁 3)年
  6月   薩摩で蝗害。 5日には、逋負稲5000束を免除する。

814 〃 5  諸皇族に源姓を賜う死者多し  疱瘡流行

815 〃 6 . 薩摩国蝗(イナゴ)害により調・庸・租を免ぜられる
815(弘仁 6)年
  5月14日 薩摩で蝗害。 調庸田租免除。

816 〃 7  左衛門大尉吉田書主に検非遺使の役兼行
816(弘仁 7)年
  1月    沙、雨のように降る。 (日本紀略)
  7月17日 摂津で海が溢れる。死者220人。 (日本逸史25)(日本
後紀26)
 12月13日 地震あり。18日と20日にも地震。 (日本逸史25)(日本後紀26)(日本紀略)

818(弘仁 9)年
  7月    関東で大地震。 死者多数。 (日本逸史26)
  8月19日 諸国で地震の被害を調査し、救恤を行う。 

819(弘仁10)年
 12月 3日 薩摩での蝗害により、田租免除となる。

820 〃 11  弘仁格式完成

821 〃 12  空海、讃岐の満濃池をつくる

822(弘仁13年) 最澄、比叡山の中道院で没。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子の光定と、藤原冬嗣、良岑安世の斡旋により勅許。

823 〃 14  大宰府管内で公営田制実施
824 天長 1  渤海使の来日を12年に1度とする
826 〃 3  上総・常陸・上野を親王任国とする

 827(天長 4)年
  7月12日 大地震。 舎屋多くが倒壊。1日に大震1回、小動78回。月末まで余震続く。(日本逸史35)
 12月14日 地震あり。清行の僧百人に大極殿で大般若経を三日間転読させる。(日本逸史35)
828 〃 5  畿内に班田を行う
829(天長 6)年
  3月    地震あり。

830(天長 7)年
  1月28日 出羽で地震あり。 駅伝によれば、秋田城郭官舎、四天王寺六仏像、四王堂舎など倒壊。
        死者15人、負傷者100余人。30許丈の裂け目が出来る。城辺の秋田川が涸れるという。
  4月25日 出羽地震の救急勅令がでる。
  7月    天皇、神泉苑で相撲を見ているとき、申刻雷雨。酉刻に至り内裏西北角曹司に落雷。
左右近衛騎乗し、内裏に入りて、神火を滅す。賜録あり。 

832(天長 9)年
  8月    河内・摂津で大雨と大風により堤防が決壊し洪水となる。 (日本紀略)
  9月    洪水の被害を受けた百姓に賑給を行う。(日本紀略)

834 承和 1  畿内の班田を12年に一度と改める

836 〃 3    薩摩国大飢饉

837(承和 4)年
  3月    彗星東南に現れる。 その光芒東の天涯に至る。 (続日本後紀 6)

838 〃 5  遣唐使大宰府より出発(最後の遣唐使)

838(承和 5)年
  7月    粉の如きものが天より降る。雨にあっても溶けず。 (続日本紀 7)
  9月    7月以降この月まで、灰が天より降る。
        河内、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、武蔵、上総、美濃、飛騨、信濃、越前、加賀、越中、播磨、紀伊の16国。
        しかし損害無し。逆に畿内七道豊作となり五穀の値が下がる。老農、これを米花と呼ぶ。(続日本紀 7)
 10月22日 彗星東南に見える。その気赤白。長さ数尺。 暫く見えなくなった後東方に現れる。
        11月17日に至るまで毎夜寅刻東方に見える。長さ7尺。(続日本後紀 7)

839(承和 6)年
  1月    彗星兌方に見える。長さおよそ1丈。 (続日本後紀 8)
  2月    東西両寺彗星が頻見するので、般若心経を講読。

841(承和 8)年
  2月13日 信濃で地震。 一夜に14回揺れ、公私の墻屋(墻は垣根)倒壊。(続日本後紀10)
  7月 1日 伊豆で地震。 里落完からず。圧死者あり。使を遣わし歴撫。
        家屋を失った者は、当年の租調を免じ、倉を開いて賑救。家屋を修復する。
        亡くなった者は、埋葬に処する。(続日本後紀10)
 11月    彗星西方に見える。
 12月    勅命により僧100人に八省院にて三日間大般若心経を読ます。
        内記に命じて○願文を作らせ、五畿七道諸国にこれを読ませ、終わるまで殺生を禁じる。(続日本後紀10)

842 〃 9  承和の変

843 〃 10  畿内校田使を任命

845(承和12)年
  5月 9日 山城より虻虫の害はなはだし。 

847 〃 14  唐の商人張友信ら、47人来着
850 〃 3  富豪の山野占有禁止
 850(嘉祥 3)年
 10月16日 出羽で大地震。 山谷形を変え、圧死者多数。(文徳天皇実録 2)

852(仁寿 2)年
  2月    夕刻西に彗星現る。長さ5丈。 (文徳天皇実録 4)
853 〃 3  全国に疱瘡流行

 853(仁寿 3)年
  3月    地震あり。
  4月    地震あり。
  7月    地震あり。
 10月    地震あり。
    この年、地震相次ぐため、名僧に読経を読ませ、神官に伊勢神宮で奉幣祈願を行わせる。

855 〃 2  陸奥奥地の俘囚警備のため兵2000人を派遣
855(斉衡 2)年
  2月    東北に長星あり。 (文徳天皇実録 7)
  5月    地震あり。
  9月    地震あり。

856(斉衡 3)年
  2~4月  地震頻発。
  6~7月  地震頻発。
  9~12月 地震頻発。

857 天安 1  右大臣藤原良房、太政大臣となる
857(天安 1)年
  3月 3日 地震により、大館地方松峰山伝寿院の堂舎が倒壊。山崩れにより仏像が谷底に埋まる。 (日本被害地震総覧)

858 〃 2  藤原良房、摂政となる
858(天安 2)年
  9月22日 地震あり。
 11月 9日 地震あり。
 12月13日 地震あり。
859(貞観 1)年
  7月27日 地震あり。
  8月 8日 地震のため、五畿七道諸国の年貢御鷹一切を停止する。 (三代実録 3)
  9月14日 地震あり。
 10月29日 大きめの地震あり。 
 11月12日 地震あり。

860(貞観 2)年
  4月22日 地震あり。
  5月 5日 雷電雨雹地震あり。 天皇、端午の節を止める。18日にも地震あり。(三代実録 4)
  6月17日 地震。22日にも地震あり。(三代実録 4)
  7月14日 地震。17日、24日にも地震あり。(三代実録 4)
  9月 7日 地震あり。(三代実録 4)
 10月 7日 地震あり。(三代実録 4)
閏10月23日 地震あり。(三代実録 4)
 12月 4日 地震あり。(三代実録 4)

861 〃 3  武蔵国の郡ごとに検非遺使をおく
861(貞観 3)年
  1月 9日 地震あり。(三代実録 5)
  4月 7日 地震あり。(三代実録 5)
  5月13日 地震あり。19日と20日にも地震。(三代実録 5)
  6月23日 地震あり。(三代実録 5)
  8月17日 地震あり。(三代実録 5)

862 〃 4  山陽・東海道に海賊追捕を命ずる
862(貞観 4)年
  1月11日 地震。25日にも地震あり。(三代実録 6)
  2月27日 地震。25日にも地震あり。(三代実録 6)
  3月11日 地震。28日にも地震あり。(三代実録 6)
  5月16日 地震あり。(三代実録 6)
  6月16日 地震あり。(三代実録 6)
  7月21日 地震。27日にも地震あり。(三代実録 6)
  9月15日 地震。21日、24日、29日にも地震あり。(三代実録 6)
 10月 9日 地震。28日にも地震あり。(三代実録 6)
 12月16日 地震。27日にも地震あり。(三代実録 6)

863(貞観 5)年
  2月 4日 地震あり。(三代実録 7)
  4月14日 地震あり。(三代実録 7)
  6月17日 越中、越後で地震。 陸谷所を易え、水泉湧出、民の廬舎崩壊し、圧死者多数。以後毎日余震。(三代実録 7)
 閏6月 9日 地震あり。(三代実録 7)
  8月 8日 地震あり。(三代実録 7)
  9月 8日 地震あり。(三代実録 7)
 11月13日 地震あり。(三代実録 7)

864 〃 6  伴善男が大納言、藤原基経が参議となる
864(貞観 6)年
  3月14日 彗星東に見ゆ。 営室宿にあって長さ4尺ほど。(三代実録 8)
  5月25日 富士山噴火。 方12里の山を焼き、火炎高20丈に達する。
        地震3回。噴火は十余日を経ても収まらず。烟雲鬱蒸して人近づけず。(三代実録 8)
  7月17日 富士山の溶岩流出し、本栖水海に流れ込み30里が埋まり、高さ23丈広さ23里に至る。水は熱湯になり魚死滅す。
        周囲の百姓の居宅も埋まり、そのまま甲斐の国境に達する。また河口海にも溶岩が向かう。
溶岩台地は青木ヶ原となり、溶岩がせの海に流れ込んで精進湖と西湖に分かれる。
        (三代実録 8、9)(日本火山総覧)
  9月 4日 地震あり。26日にも地震あり。(三代実録 9)
 10月 9日 地震あり。(三代実録 9)
 12月    地震あり。(三代実録 9)

865(貞観 7)年
  1月14日 地震あり。29日にも地震あり。(三代実録10、11)
  3月22日 地震あり。(三代実録10、11)
  4月12日 地震あり。(三代実録10、11)
  9月24日 地震あり。(三代実録10、11)
 11月 1日 地震あり。14日にも地震あり。(三代実録10、11)
 12月 2日 地震あり。(三代実録10、11)

866 〃 8  藤原良房、摂政となる 応天門の変
866年(貞観8年) 最澄、伝教大師の諡号が贈られた
866(貞観 8)年
  1月25日 地震あり。(三代実録12、13)
 閏3月 5日 地震あり。(三代実録12、13)
  6月 7日 地震あり。16日にも地震あり。(三代実録12、13)
  8月15日 地震あり。(三代実録12、13) 
 10月19日 地震あり。(三代実録12、13)
 11月 7日 地震あり。(三代実録12、13)
 12月10日 地震あり。(三代実録12、13)

867 〃 9  京都に常平所設置、官米を安く売る

867(貞観 9)年
  1月20日 豊後鶴見山頂の青泥池、黒池、赤池が震動し硫黄臭が遍満する。さらに噴火し、沙泥が数里四方に積もる。
        泉が沸騰し、川となって山脚の道路を塞ぎ、川に至って魚数千万が死ぬ。震動三日続く。(三代実録14)
  1月23日 彗星、紫微宮に見ゆ。内階を貫き長さ5尺。 (三代実録14)
  1月27日 地震あり。2月1日にも地震あり。(三代実録14)
  5月11日 夜、阿蘇山で奇光が見られ、翌日朝震動して長さ250丈、広さ50丈が崩壊する。 (三代実録 14)
  5月13日 地震あり。(三代実録14)
  7月25日 地震あり。(三代実録14)
  8月14日 地震あり。25日にも地震あり。(三代実録14)
  9月 6日 地震あり。(三代実録14)
 10月15日 地震あり。(三代実録14)

868(貞観10)年
  4月13日 地震。28日にも地震あり。(三代実録15)
  5月19日 地震あり。(三代実録15)
  7月 8日 播磨で地震。 諸郡官舎・諸寺堂塔悉く倒壊。この月、度々地震。(三代実録15)
  8月10日 地震。この月度々地震。(三代実録15)
  9月 7日 地震。(三代実録15)
 11月27日 地震。(三代実録15)
 12月 1日 10日、16日にも地震。(三代実録15)

869 〃 11  貞観格撰上. 新羅の賊、博多に来襲

869(貞観11)年
  5月26日 陸奥で大地震。 流光が昼の如く目撃された後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。
        また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ1000余人が死亡。(三代実録16)
  9月 7日 紀春枝を検陸奥国地震使に任命し、判官と主典をそれぞれ一名ずつ随伴させて派遣する。
 10月13日 詔を発し、死者を埋葬させ、被害の大きい者は租調を免じ、あまねく賑救を行う。

870 〃 12  藤原元利万呂らを新羅内通の嫌疑で捕縛
870(貞観12)年
  7月29日 山城綴喜郡山本郷で山が裂け、小山が出来る。 (三代実録18)
    この年、肥後で地震、 風水害。舎宅悉く倒壊。(日本紀略)

871 〃 13  良房、准三后の待遇をうける

871(貞観13)年
  4月 8日 鳥海山(大物忌神社所在地)噴火。 同山よりの河に青黒い泥水溢れ、臭気充満する。死魚河を塞ぐ。
        泥流大きいもの2つ、小さいもの多数、海に達する。泥水により草木生えず。(三代実録20)(日本火山総覧)
  7月10日 地震あり。25日にも地震あり。(三代実録20)
  8月 7日 地震あり。17日にも地震あり。(三代実録20)
  9月  桜・李・梨・桃などの花が季節外れに咲き、諸神に祈る。 (三代実録20)

872 〃 14  良房没、基経、摂政となる
872(貞観14)年
  9月30日 地震あり。建礼門院前で大祓を行う。(三代実録22)

873 〃 15  皇子・皇女に源姓を賜う

873(貞観15)年
  4月14日 地震あり。(三代実録22)
  7月 1日 日蝕あり、光無し。 (三代実録24)

874 〃 16 . 開聞岳噴火
874(貞観16)年
  3月 4日 薩摩開聞岳、夜雷霆が響き一晩中震動。噴火して降灰し禾皆枯れ、河水濾濁し魚死滅。
        死魚を食べる者、或いは死に或いは病気になる。大宰府7月にこれを報告す。(三代実録26)
 閏4月    小地震頻発。(三代実録25)
  8月 1日 伊勢より、蝗害あり。(三代実録26)
  8月24日 大風雨により紫宸殿前桜、東宮紅梅、侍従局大梨などが倒れ、官舎なども倒壊する。
        京市中で洪水、朱雀大路豊財坊門が倒壊する。家屋多数流失。(三代実録11)
875 〃 17  下総国の俘囚の乱
875(貞観17)年
  2月12日 地震あり。17日、29日にも地震あり。(三代実録27)
  3月 9日 地震あり。14日にも地震あり。(三代実録27)
  4月28日 卯刻、白彗東北に現る。赤色をし芒角をなす。 (三代実録27)
  5月 2日 彗星、長さ丈余。始めて五車に出ず。稍、八穀星を履き、その気耗減といえども未だ芒滅せず。 (三代実録27)

876 〃 18  大極殿焼失
876(貞観18)年
  5月14日 翌日にかけて小地震、21日にも小規模の地震。(三代実録28)
  6月18日 地震あり。(三代実録28)

877(元慶 1)年
  4月 1日 日蝕あり。(三代実録31)
 10月17日 大地震。 (三代実録33)

878 〃 2  50年ぶりに畿内に校田実施 出羽国の俘囚の乱

 878(元慶 2)年
  9月29日 夜、相模、武蔵で大地震。 揺れは京に達する。5、6日揺れが収まらず。
        公私の舎屋全滅。地面陥没。百姓の圧死多数。(三代実録34)

879 〃 3  畿内に班田 畿内に官田4000町設定
879(元慶 3)年
  3月 7日 翌日にかけて地震。(三代実録35)
  3月22日 地震。29日にも地震。(三代実録35)
  4月 2日 地震。7日にも地震あり。(三代実録35)

880 元慶4  藤原基経、関白となる
880(元慶 4)年
  2月14日 地震。28日にも地震。(三代実録37、38)
  4月 2日 地震。5日、10日にも地震。(三代実録37、38)
 10月 1日 地震。2、3日にも地震。
 10月14日 出雲で大地震。 神社、仏寺、官舎、百姓居濾の多くが倒壊。負傷者多数。余震相次ぐ。(三代実録37、38)
 12月 4日 地震。(三代実録38)
 12月 6日 夜、山城、京などで大地震。 翌昼までに16回発生。大極殿の西北隅が崩壊。建造物の破損多し。
        7日、陰陽寮は兵賊飢疫の兆しと判断し、天文奏を行う。
        以降この月毎日のように大震小震が続く。(三代実録37、38)

881 〃 5  官田の経営方式を定める 

881(元慶 5)年
  1月 6日 昨年末からの地震に続いて、この日以降、11、12、14、16日にも地震。(三代実録39、40)
  9月19日 地震。20、21日にも地震あり。(三代実録39、40)
 12月 6日 地震。8日にも地震あり。(三代実録39、40)

883 〃 7  上総国市原郡に俘囚の乱

 884 〃 8  藤原基経、関白の実を行う

 884(元慶 8)年
  4月14日 地震あり。16日にも地震あり。(三代実録46)
  6月29日 地震あり。(三代実録46)
  8月 4日 戌より子に至り、小星四方に流散し、雨の如く墜ちる。 (三代実録46)
 11月 6日 地震あり。(三代実録46)
885 仁和 1 . 開聞岳噴火

885(仁和 1)年
  7月11日 6月より肥前に雨が降らず、国司諸神に奉幣。 (三代実録48)
  7月12日 薩摩にて、夜、晦冥にして衆星見えず、砂石が雨のように降る。開聞岳の噴火と見られる。 (三代実録48)
  7月13日 肥前で夜陰に粉土屑砂が降り、苗や草木が枯れる。 その後雨が降りて枯苗再生する。 (三代実録48)
  8月11日 開聞岳噴火する。 砂地が降り、昼間に夜の如し。田野が埋没し、人民が騒ぎだす。
 神祇官卜して云うには、来春に薩摩国で疫病あると。
 陰陽寮は占い、府辺東南の神、隣国に遷ろうとしている。よって蚕穀損耗あり。
 それを受けて府司に下知して彼の両国をして部内の衆神に奉幣し以て冥助を祈らせる。

 886(仁和 2)年
  3月21日 地震あり。(三代実録49)
  4月13日 地震あり。(三代実録49)
  5月10日 7日よりの大雨で洪水。(日本紀略)
  5月24日 上総、下総、安房で大地震あり。 安房方面に黒雲あり、その中で電光ひらめき、地震を起こる。一晩中続く。
        砂石粉土地上に積もる。草木悉く枯れ、馬牛の粉草を食して死する者はなはだ多し。
        新島の噴火か。 (三代実録49)(日本火山総覧)
  6月15日 地震あり。(三代実録49)

887 〃 3  藤原基経、関白の詔を憂く

 887(仁和 3)年
  7月 2日 大地震。6日、30日にも大地震。余震8月に至る。
        天皇、仁寿殿から紫宸殿の南底に移り、大蔵省に命じて7丈の幄二を建て、御在所とする。
        諸司倉屋、東西京師の廬舎多く倒壊し圧死者多数。失神して頓死する者もあり。亥刻また3回震動。
        七道諸国同日大いに震動し、官舎多く倒壊。津波により溺死者多数。摂津国の被害は特にはなはだし。
  8月    余震頻発し、5日には大地震あり。36種類の妖言が囁かれる。
        紫宸殿と大極殿で大般若経を三日行う。(三代実録50

888 . 4  阿衝の紛議…政局混乱し、橘広相を処罰

888(仁和 4)年
 11月 9日 地震あり。(日本紀略前20)

889 寛平 1  高望王らに平姓を授ける
889(寛平 1)年
  2月10日 地震あり。(日本紀略前20)
  3月 1日 地震あり。(日本紀略前20)
  7月 2日 地震あり。(日本紀略前20)
  8月20日 地震あり。(日本紀略前20)

890 〃 2  藤原基経、関白を辞す

890(寛平 2)年
  6月 7日 京で地震。(日本紀略前20)
 12月 4日 京で地震。(日本紀略前20)

891 〃 3  基経没 菅原道真、蔵人頭となる

892(寛平 4)年
  2月19日 地震あり。(日本紀略前20)
 11月10日 地震あり。(日本紀略前20)

893 〃 5  新羅人、筑前・肥後に来寇する
894 〃 6  遣唐使廃止(藤原道真)の建議

 894(寛平 6)年
  3月24日 地震あり。(日本紀略前20)
 11月 3日 地震あり。(日本紀略前20)
895 〃 7  新羅人、壱岐に来襲
 896 〃 8  五位以上の私営田禁止

 896(寛平 8)年
  1月13日 地震あり。(日本紀略前20)
  2月 4日 地震あり。(日本紀略前20)

897 〃 9  藤原時平が大納言、道真が権大納言となる
 897(寛平 9)年
  7月22日 地震あり。(日本紀略後 1)

898 昌泰 1  時平が左大臣 道真が右大臣となる
898(昌泰 1)年
  7月27日 地震あり。(日本紀略後 1)

899 〃 2  宇田上皇出家(法王の始まり)
899(昌泰 2)年
  9月 7日 地震あり。(日本紀略後 1)

 


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光明皇后 [歴史]

光明皇后701(大宝1)~760(天平宝字4)
藤原不比等の第三女。母は県犬養橘宿禰三千代。740(天平12)年頃からは光明子と称す。夫は不比等と橘三千代の間に生れた首皇子。724年、伯母の元正天皇より譲位を受けた。(聖武天皇)。
天平2年、皇后宮職に施薬院を置き、自らの財によって薬草を集め、病者に施した。貧窮者の救済にあたった悲田院もこの頃設置されたものと思われる。

悲田院(ひでんいん)
聖徳太子が四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承がある。9月15日に建てられたとされる。
のちの723年光明皇后が設置したものが日本では記録上で最古のものである。
平安時代には、平安京の東西二カ所に増設された。
唐に設けられた施設に習って建設され老人や貧窮者を収容する社会福祉施設。

奈良法華寺の施浴
天然痘が猛威を振るい多くの死者がでた頃、光明皇后は夢で佛のお告げを受け、自分の屋敷に浴室を建て、貴賎(身分)を問わず千人(多くの人)をお風呂に入れることを誓った。
そして同じ信仰の道にいそしむ三人の典侍[ないしのすけ=付き人]を手助けとした。
 ちょうど千人目に現れたのは、肉がただれ、膿が出ている病人だった。それでも皇后は快く入浴させてあげた。実はこの病人は、姿を変えて皇后の心を試していた佛様(阿閃佛)だった。そしていづ方となく姿を消した。
 皇后、自分の願いが達成せられた事をおおいにお喜びになり、これが千人風呂の起源となった。
 奉仕したる三人の典侍[ないしのすけ=付き人]は、世に伝えてこれを三典[さんすけ]と称し、即ち世俗に残る『三助』の由来となった。

わが背子と 二人見ませば 幾許か この降る雪の 嬉しからまし
   光明皇后  万葉集巻8-1658

平成17年7月21日(木)◆両陛下が高齢者施設を訪問◆

 天皇、皇后両陛下は21日、東京・杉並区で老人ホームなどを営む社会福祉法人「浴風会」を訪問された。同法人は関東大震災で自活できなくなった高齢者らの援護のため、皇室の見舞金などで設立された。両陛下は「認知症介護研究・研修東京センター」で、認知症介護の模擬実習を視察。特別養護老人ホームでは、音楽でのリハビリ活動を行っている高齢者に、励ましの言葉をかけられていた。                      (読売新聞7月22日引用)

平成18年2月28日(火) ◆皇太子殿下ご覧◆
(「東京エコシティ-新たなる水の都市へ」展)(東京都江戸東京博物館(墨田区))

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楽善会と武蔵野うどん [歴史]

楽善会訓盲院の歴史

1871(明治4)年
当道座が廃止

1875(明治8)年、 5月22日
中村正直、津田仙、岸田吟香、イギリスの伝道師、古川正雄らが楽善会を組織する。

1876(明治9)年 3月15日
楽善会訓盲院が設立される。
アメリカ合衆国の万国博覧会を視察した文部大輔田中不二麻呂、手島精一がブライユ点字の本、点字器、ムーンタイプの凸字書などを日本に持ち帰る。

12月27日、楽善会訓盲院設立基金三千円が明治天皇から御下賜される。

1878(明治11)年
盲唖院が京都に設立される。

1879(明治12)年
築地に楽善会訓盲院の新校舎落成される。

1880(明治13)年
7月18日、明治天皇、京都府立盲唖院の生徒4名を小御所に召され、学業をご覧になる。楽善会訓盲院は鍼灸の授業開始する。

1885(明治18)年
楽善会訓盲唖院は、文部省直轄となりマッサージが紹介される。

1887(明治20)年
楽善会訓盲唖院は東京盲唖学校となり石川倉次、助教諭となる。

明治初期、盲学校唖学校が東京、京都に設立され盲唖教育が開始された。

盲唖学校の歴史
特殊教育の歴史
盲人の歴史より

武蔵野うどん
武蔵野うどんは冷えたうどんに、あたたかい漬け汁をつけて食べる。むかしは農家のおやつといえば小麦粉を水で溶いて砂糖を混ぜ焼いたおかしがごちそうだった。小麦粉はお正月、祝い事などで食べられ貴重だった。うどんは少し黒ずんでいるが、豚肉の漬け汁は甘めでとても良く会う。東京の武蔵野うどん専門店は東村山や小平、府中などの多摩地区に多いがわずかに都心でも食べられる店があった。
http://udon.eg-page.com/02/cat25/
東村山 武蔵野うどん
http://www.shoukoukai.or.jp/guide/map01.html

 

 


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