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馬とお蚕さま [歴史]

戦国時代には多くの刀鍛冶、鉄砲鍛冶が武器の生産に従事した。多くの場合城下の一角に集められ、大名や武士の注文に応じた。各地に「鍛冶町」の地名が残るのはその名残である。W
実際に区西部のある村のわからない地名が古河・古い川という由来だったり、秦野氏・秦氏の稲荷信仰の神が鍛冶と関係していた。このことで鍛冶屋が存在しない区の養蚕農村に鍛冶屋の字・地名だけが残っているのも秦氏が関係している。中学ん時、歴史クラブの先生も鍛冶屋の地名の由来はわからないと言っていた。
『古事記』では火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)とは火の神、鍛冶の神として信仰されている。
応神天皇・八幡の時代に渡来した「弓月の君」。日本書紀応神紀に帰根の優れた秦氏。ウズベキスタンのイリ川から「弓月の君が百二十県の民を率い、大挙して日本に渡来、移住す。5世紀初頭には伽耶国から騎馬民族集団が忽然と姿を消したとされている。
★【太白・金星=風】占い★
星神kirakira11.gif水神・安産などの天白信仰は伊勢参りが元とされていて伊勢参りの風習がある。 風土記

馬とお蚕さま
黒姫山伝説 越後の国 日本神話
黒姫山伝説は西頚城郡一の宮村黒姫山鎮座の奴奈川姫命であって、越後の大国主命の妃で機織など土民に教えられたので、機織りの神として合せ祀る。と記されています。
陰陽五行の地のうちの一つ水を司る神です。容姿はラ蛇、うなぎ、タニシ、龍などとなって現れる。農作物がその化身とされることもある。
罔象女命・・・水波能売神 弥都波能売神
「罔象」は、中国の古典によると『淮南子』氾論訓の注に「水之精也」とあり、『荘子』達生に「水有罔象」とある。


馬頭琴を知らない音楽教員は馬頭琴を聞きましょう
馬鳴菩薩 めみょうぼさつ 馬とお蚕さま 戯曲と音楽 花祭り
八王子では養蚕の神として馬鳴菩薩をまつり上恩方町には石碑に銘の馬鳴菩薩像があり,元来,中国の民間信仰に由来し,衆生に衣服を与える菩薩,養蚕織物の神としてまつられ,仏教の伝来とともに日本に伝えられ平安時代の記録にも残っている。

中国の民間信仰をなぜ八王子や養蚕の地域の人が信じ、伝説になっているのでしょうか。
仏未出家時 所生八王子 見大聖出家 亦随修梵行
源氏物語 若紫 「優曇華の花 待ち得たる心地して 深山桜に目こそ移らね」

『源平盛衰記』 琵琶鐃銅法性の深理・馬鳴菩薩は苦空の曲・忉利天宮天人歌舞

000000019.jpg 二里頭遺跡
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200502/teji-1.htm
応神天皇・秦河勝・聖徳太子・道鏡・和気清麻呂・光明皇后・桓武天皇これらの時代の方々が最近になって歴史上でとりだたされてきている。この時代と【同じ時代】が現代のような気がします。
戦後昭和30年後半、蚕糸から科学繊維に変わり、時代の変わり目となった。再び【同じ時代】がやって来る。
筑波嶺の、新桑繭の、衣はあれど、君が御衣し、あやに着欲しも 万葉第十四巻 【お蚕さま】【衆生に衣服を与える菩薩】
筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母


Kelsang Metok  Sky Marriage.flv_000128071.jpg kirakira04.2.gif桑梅朵.Kelsang Metok

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『漢書』天文志 哀帝の4年に「縦目人が来る」 羌や蜀が戈を追いやった

チャン族羌 qiāng
古代の商王朝(紀元前1000年前後)時代の甲骨文字の資料に記載された、3000年前の殷代の遊牧民“先”の末裔と考えられている。古代の“先”は蔵族や漢族と融合し、一部が中国西南部の岷江や大渡河、雅聾江などの大河に沿って南下した。現在これらの大河流域に居住する四川省西北部の蔵族諸集団や普米族などは、古代羌族の一分支である。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241438

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=241375
馬頭観音と馬頭娘
道祖信仰では馬頭観音もよくみられる。江戸時代、近郊農村では野菜などを荷車に積んで市ヶ谷や四谷などに売りにいき、代わりに下肥と交換することもあった。馬子や馬追いが多くおり、また馬の供養や病気にならないように馬頭観音が祭られた。
馬頭観音は馬頭明王とも呼ばれ、群馬では馬の沓が蚕が病気にならないと言う伝説がある。もっとも馬の伝説では東北地方のオシラサマが有名である。オシラサ マは馬頭(男神)と娘頭(姫神)の複数体で老巫女が語る。馬頭とは馬頭人身の鬼で地獄の獄卒のことをいい、馬頭娘は蚕女のことである。
オシラサマの風習は奥州地方ではイタコが年に一・二度、旧家に尋ねてオシラサマを踊らせ一年の吉凶や田植えの時期などを占った。小正月になると女児がオシラサマの顔におしろいを塗り化粧をして、白い布の新しい着物を着せる。ことを『おせんだく』するという。
「馬姫婚姻譚」がイタコ によって語られたが、『捜神記』がどのように伝播されたかは不明だが、『弱った馬に念仏を唱えると生き返った』 という馬の伝説は武蔵野にも残っている。馬が娘を乗せ天界に去っていき、再びその姿を見せた時『白と黒の虫』が天から降ってくる。『白と黒の虫』とは馬頭 と娘頭であり、『おせんだく』でおしろいと白い布も『姫の姿の白い虫』も同じ白である。

 『捜神記』では
「旅に出た父に対して娘が寂しさのあまり父を連れ戻してきたら結婚してあげようと馬に伝える。馬は本気になり言うとおりに父を連れ戻す。しかし娘は冗談だと言って拒絶し怒った父は馬を殺す。」
「馬姫婚姻譚」では馬と娘が最初から仲がよく慕っている。このような違いはあるが、他の話はほとんど似ている。

道教の「蚕女説話」には人間の娘が蚕の神になった話がある。

『帝?高辛氏の時代、蜀(しょく)という国(四川)に ある男が賊にさらわれた。一年たっても二年たっても男は戻ってこない。男の妻は『夫を連れ戻してきたら家の娘を嫁にあげましょう』と公言する。その話を聞 いた馬が家を駆け出して無事に夫を連れ戻す。妻は困って夫にわけを話すと、馬に娘はやれないと馬を殺してしまう。そして馬の皮を庭にさらした。ある日、馬 の皮が舞い上がり娘に巻きついてどこかへ飛んでいってしまう。十日経って馬の皮が木に引っかかっていて娘は蚕となり、糸を吐いていた。その木は桑と呼ば れ、繭はたんへん大きく大豊作になったという。』

オシラサマは東北地方の馬文化により受け入れられやすく、馬よりも馬の世話や養蚕、機織りをする女性が美化されているところから養蚕の神『蚕女』となって いった。木乃花咲耶媛(このはなさくやひめ)が富士の火山、酒造り、五穀豊穣、養蚕の守護の女神であることからも『桜の美とお姫様』というお姫様神話から 生まれたことは自然なことである。

馬鳴王と馬鳴菩薩信仰
「皮影戯」(ピーインシー)は動物の皮を使った影絵劇で、中国浙江省東部嘉興市の養蚕農家で蚕がふかする時にまゆ玉の豊作を祈願する、「皮影戯」を行った「蚕戯」があった。「蚕戯」は蚕花五聖の説話を演じ、最後に「馬鳴王」を演じた。「馬鳴王」は白馬に乗った馬鳴王菩薩が蚕の誕生から絹糸の出荷まで見守っていて、宗教儀礼としての要素がある。
 日本では蚕神として馬鳴菩薩信仰や蚕玉信仰があり、東北、関東、中部、東海地方の養蚕地域に広まった。
 東インドの馬鳴菩薩は中インド華氏城民衆を戯曲で教化した時に、500人もの王子や人々が出家したといわれる。付法蔵 の一人でバラモンの論師だった仏教に帰依し「大乗起信論」をあらわし外道・小乗経を破し大乗経を広めた。
養蚕神としての馬鳴は中国の民間信仰より起こった。馬鳴菩薩は馬頭観音と同様に道祖神と一緒に祭られる。また馬鳴は蚕中に化生することに関係している。八王子上恩方の馬鳴菩薩は石に菩薩が彫られていて、数珠と宝珠をもっている。上田市秋和の正福寺の馬鳴菩薩は右手に桑、左手に蚕を持っていて白馬にまたがっている。

多摩のおしら講
多摩地方では西多摩・青梅などに多くみられた。おしら講は女性の日待ちで、「拾芥抄」の蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば百倍の蚕が得られるという伝説が六朝時代の中国南部の『荊楚歳時記』 より伝わった小正月の「小豆かゆ」の伝統行事と「女日待」という風習がかさなり講となった。秋蚕がすぎ養蚕の収入がはいり、次の農繁期までの里帰りできる休暇であった。里芋の煮物やさつま芋、だいこんの漬物などをつくり集まった。もともと「講」とは庚申講などにみられる男の集まりに対して女性の休暇は少なかった。
「女日待ち」は「日・月・庚申の待ち信仰」のひとつで、蚕影山信仰などを持つ地域以外は特定の寺社信仰ではなく、ひな祭りに近い伝統行事、年中行事であった。また小豆かゆとまゆ玉餅の風習も同時に行われていることから、道祖神のどんど焼きの団子がまゆ玉団子と変化していった。

養蚕の起源  ☆四川―羌族―養蚕―馬頭娘☆
中国の元の王(おうてい)が書いた『農書』(1313)の巻6に、「淮南王(わいなんおう)蚕経にいう 黄帝元妃西陵氏始めて蚕す」の文章が載せられていて、これが養蚕の起源として広く引用されている。系譜上での黄帝は、中国最古の王朝といわれる夏(か)の祖先の禹(う)のさらに祖先にあたり、現在歴史学的にはその実在性が否定的である。しかし、このようなことから中国では非常に古くから養蚕が行われていたということが想像できる。
 一方、考古学的遺物から、殷(いん)代(前17世紀~前11世紀なかば)には養蚕が行われていたと思われる。すなわち、殷墟(いんきょ)から発掘された甲骨文のなかに、蚕、桑、糸、帛(はく)などの文字があること、さらに青銅の斧(おの)や壺(つぼ)に付着していた布が絹織物であることなどから、殷代の黄河流域で、世界で初めて養蚕が始められたのであろうと考えられている。

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小豆がゆとまゆ玉 養蚕の始まり 竹取物語 [日記]

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小豆がゆとまゆ玉 養蚕の始まり
拾芥抄には蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば百倍の蚕が得られるという伝説が六朝時代の中国南部の『荊楚歳時記』より伝わったとされ、武蔵野の養蚕農家では1月14日にまゆ玉をつくり、ナラやカシの木などを切ってお座敷に供えました。にんじんやゴボウの形につくりました。二升ものだんごでまゆ玉をつくり、大きいまゆ玉だんごを十六個つくり桑の木に供えました。桑の木の根っこで、おしら様をつくり、そこから出ている枝に十七個のまゆ玉をつくりお供えしました。
1月15日小正月に小豆がゆをつくり、神仏に供え、嫁は実家にかえりました。小豆かゆの中にお餅をいれたり、小豆ご飯を炊いたり、うどんの入った、どじょうかゆをつくりました。
五穀 麦 黍(きび) 粟 稲

小手子姫  【福島県伊達郡川俣町】
崇峻天皇(587~597)の妃、小手子姫は蘇我馬子により大和を追われ、奥州の果て川俣を訪ねた。芋ヶ作という所に住み桑の葉を育て養蚕を始めた。糸を繰り機の織り方を里の人に伝えた。

金色姫  【茨城県つくば市 蚕影山】
雄略天皇の時代(478頃)にインド・天竺の旧仲国に金色姫がおりました。悪い皇后は金色姫を憎み追い出そうと獣の多い山へ捨てましたが金色姫は戻ってきたので、今度は鷹群山へ捨てました。それでもだめだったので、海眼山へ捨てました。けっきょく金色姫は御殿に戻ってきたので、腹を立てた皇后は、庭に七尺の穴を掘り姫を埋めてしまいました。リンエ大王は金色姫の居ないのに気づき、みなにたずねましたが誰も知らないと言うだけでした。ある日、リンエ大王は庭に光がさしているのを見て家来に掘らせました。穴の中にはやつれた金色姫がおりました。大王はこの国にいてもまた母に憎まれるだけなので泣く泣く姫を桑の木のうつぼ舟にのせて遠い異国へと旅立たせました。船は流れ流れ、茨城県筑波の豊浦にたどりつきました。権太夫という漁師がは桑の木の船を見つけなかからは金色姫がでてきました。すぐに家につれて帰りました。権太夫は姫から云われを聞きたいそう哀れに思いました。
姫は床につくと間もなく亡くなってしまいました。夫婦は姫の亡がらを大切に唐びつにおさめました。ある夜、夢の中で姫が食べ物をくださいとお告げがありました。姫の亡がらは水に溶けてたくさんの小さな虫になりました。夫婦は桑の木のうつぼ舟から桑の葉をとり虫に与えました。虫は喜んでこれを食べ、すくすくと成長しました。ある時、この虫たちが桑の葉を食なくなりました。また姫は夢の中に出てきて、私が天竺にいたときの苦難のために今お蚕が休眠しているのですと言いました。マユができると、筑波山から仙人が現われて、マユから糸をとることを教えました。ここから、日本で養蚕が始まりました。2010/4/13(火) 午前 1:32[グッド(上向き矢印)]kirakira12.gif青海地震前日


筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母 【衆生に衣服を与える菩薩】
しぐれ降る 雨霧かすむ 小筑波の 相模の峰は 明ける蒼さと (金色姫) 【蒼さ---帝の光・渡来文化】
http://blog.livedoor.jp/rh1-manyo/archives/28249391.html
秋篠宮ご一家、養蚕展を見学
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG26045_W2

資生堂[グッド(上向き矢印)]
http://www.shiseido.co.jp/inon/tvcm.html

追記 2010/4/15

私は神話・竹取物語を信じている方々に伝えたいだけです。 太鼓

お月さまは知っていた。weather11.gif

姫神の【神々の詩】を聞くと縄文弥生・古墳時代やヒマラヤ・自然がイメージされる。また祭祀の音階でもある。
この音階は古代中国のもので陰陽五行の音階だ。私たち日本には縄文弥生・古墳時代の音楽など残っていない。残っていない聞いたことのない音楽が何故イメージ・再現されるのか。答えは古代中国からの遺伝子だけが覚えているからだ。五音・五声とは胎児の頃より形成され乳児はラ音を覚えているという。土地・鉱物・作物により味ができ、五声・舌で味を知る。五音・五声とは自然界の音階と韓国、中国語です。渡来人説・・・・
揚子江流域などから伝わった(水稲)稲作に始まり後には漢字、仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み、古代日本における文化・政権形成に大きな役割を演じたと考えられている。渡来人は日本列島に定住し、後世の日本人の祖先となった。4/15[バッド(下向き矢印)]


養蚕民具
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/edu/kyoiku/rekishi/bunkazai/_7422.html
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200502/teji-1.htm

竹取物語
お姫様が月に例えられるのは竹取物語りだけ。かぐや姫はにっぽんの月の女神。月の化身。月は人間や地震、海に影響する。みんなも地元では落ち着いたり活躍したりするのも土地が人に影響する。人は土地に影響を与える。農業はお天気に左右される。農業や自然を守れば、人もうるおい、お天気にも影響をあたえる。農業気象。
月を写すのは泉。泉は人の心を写す。月は人の感情、心理。観月。竹は災害から人を守る防護壁。月、竹、泉は陰陽。七夕の織姫彦星はコト座の一等星。海女の川と白鳥に例えて天女。天女は八人いて月の満ち欠けを司る。天女は羽衣伝説。かぐや姫は月の化身。天界のひと。昇天するのです。かぐや姫に慈愛を注いだ翁とおうなは不治の薬、長寿を頂いたのです。いかに守衛宮城せりといえども不信の者には星が降るのです。彗星守月。お月さまが人や国土を守護する。これはにっぽん神話。
竹の中の光物の瑞相はいったい何か。月によるものか。よほど世の中に影響を及ぼす出来事があったのだろう。

『続日本紀』巻八養老二年(七一八)十一月壬寅辛夘朔十二
十一月壬寅。彗星守月


かぐや姫

①垂仁天星の妃の一人として迦具夜比売命。
神功皇后の名は息長帯日売とされ、カグヤヒメと言われる。
②藤原宮子姫の伝説
九海士の浦の漁村で生まれた宮子は、頭髪に恵まれなかった。ある日、母親が海の底から観音様を拾い願をかけると、髪が生え美しい長い黒髪になった。この黒髪を燕がくわえ、奈良の都へ飛んで行き、藤原不比等の屋敷に巣を造った。この髪を見た不比等が宮子を探し、養女に迎え、文武天皇に嫁がせた。
また宮子は海人という説もあります。
③もう一人は光明皇后もかみなが姫伝説があります。
④迦具夜比売の叔父が讃岐垂根王で、かぐや姫の養い親 讃岐の造麻呂で、香川県は、日本書紀では「讃吉」、続日本書紀では「紗抜」と言われています。
⑤、『延喜式神名帳』(平安初期)に記載されている「讃岐神社」が現在の奈良県広陵町三吉斉音寺にある。
⑥『古事記』の「大筒木垂根王」と「大筒木真若王」の「筒木」は、継体天皇の筒木宮であり山城国のことである。「迦具夜比売命(かぐや姫)」の「竹取物語の舞台」が京田辺市であるという説。


阿倍内親王

聖武天皇の皇太子時代に結婚し、718年(養老2年)阿倍内親王を出産。
聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず、天平10年1月13日(738年2月6日)に娘・阿部内親王を立太子し、史上初の女性皇太子となる。のち天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。
孝謙女帝・・・大仏開眼や東大寺における新春万燈会などの華やかな行事にの傍ら、藤原仲麻呂の勢力が急速に高まるにつれて、奈良麻呂が仲麻呂を失脚させようと陰謀を企てた。しかしこの情報が漏れて未遂に終わり、奈良麻呂らが捕らえられた。
weather11.gif月の女神は、皇位を守る。男系が育たなかった光明子に宿り、化身となりご加護された。718年(養老2年)阿倍内親王を出産。のち孝謙女帝となり、華やかな時代とともに、東宮に怪しげな動きがあらはれるのである。
古事記には、第9代開化天皇の孫、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)とその娘、迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」の名がしるされている。迦具とは火之迦具土神、火の御魂の神からきています。
かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話は何を意味するのでしょうか。
竹の神話には木花之佐久夜姫(コノハナノサクヤヒメ)のお産の時へその緒を切った竹の刀が竹林となった。コノハナノサクヤヒメにはホデリ(海彦)と末っ子のホオリ(山彦)がいました。海彦と山彦はお互いに道具を交換して仕事に出かけました。海の仕事に慣れていないホオリ(山彦)は海彦から借りた大事な釣り針をなくしてしまい途方にくれていました。それを見ていたおじいさんが竹櫛を大地に投げ付けました。するとたちまち竹林となり、すぐさま竹篭を編みました。山彦はそれに乗って海に出て釣り針を探すことが出来ました。竹の成長力、生命力が神秘的な力をもっていると信じられていました。
竹中生誕説話は神秘的な出産、出生である可能性は高い。

光明子の巻
http://shosoin.kunaicho.go.jp/

玉依姫(たまよりひめ)海の女神の伝承の霊鹿と鳳来寺山で薬師を刻んでいた父の利修仙人の間に生まれた光明子。利修仙人が三河の鳳来寺山で修行していたとき女児を都の貴人の家の前に捨てた伝承があります。

『興福寺流記』の伝承には『光明皇后、和泉国の織女、田を植ゑるに光あり或いは夢に見る、或いは聖武右を見る、と云々。嫌ひ出るの後、田植の諸人一人づつ上に至るに、光明女上り畢りぬれば田に光なし、と云々。仍て之を語り、奈良の都に迎へ取りて立后す。而して見聞恵稽首君二人の仏師に問ぴ阿弥陀仏三尊観音菩薩と勢至菩薩霜月三夜 お産・子宝や子育)を造立し奉り、和泉の木津に船に入れ之を運ぷ。和泉国国分寺を建立し之を安置す。是光明皇后の御願なり。而して件の国分寺には免田の照田・光田二町を寄進す、と云々。是即ち皇后の昔植ゑ給ふ田なり。』

開化天皇の時代。迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)の名が後の時代、別のお姫様になって登場すると竹取物語で物語っている。これは迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が次の時代に生まれ変わってくること。人は生まれ変わるということが信じられ、過去から【同じ時代】が再び繰り返されたとき迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が生まれてくることを物語っている。
このことは竹取物語の結末の『不死の薬』すなわち長寿・いのち・未来・永遠が説かれている。お蚕さまも交尾をしたら離れない。いのち・未来・永遠とお徳を説いているのです。
そしてまた同じ時代に、かぐや姫が月の女神となりたまいき、再び化身となり、男系をはぐくまれた。それが守護月天のお役目なのです。竹取物語の中にもお月見・観月・が大事で十五夜が説かれている。観とはで観ずる・この世と宇宙・自然・国土・人の感情すべて感じとることなのです。「彼の興福寺を以て藤氏の氏寺と為し竹取Part2
 2008-02-11 19:16 記 格桑梅朵  「無諍念王と申すは阿弥陀仏なり、其の千の太子は今の観音勢至普賢文殊等なり」「妙とは不死の薬なり、此の心は不死とは法界を指すなり」「妙楽大師 実相常住は甘露の如し是れ不死の薬」「是れ徐福の詐には非ず。後に応に不死の薬有るべき故に、自然に預め蓬莱山の名を立つる故なり。」 「若し女人有って、設い男を求めんと欲し、観世音菩薩を礼拝し供養せば、便ち福徳智慧の男を生まん。設い女を求めんと欲せば、便ち端正有相の女の、宿徳本を植えて、衆人に愛敬せらるるを生まん」

きよ水の 月影浮かぶ 池の水 月に宿りて 我が身も宿す (観月・観

いざよふの 月に誘われ 想うにと 秋深まりし 十五夜の月 竹取




   【無断持出禁止陸長情報員工事中】Pv.571weather11.gif   kirakira13.gifKelsang Metok  格桑梅朵


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